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スノウホワイト



 黒板に羅列する方程式。
 数学の相良先生が、長い方程式を黒板にすらすらと書いていく。
 ゆびさき。
 私の視線は、その、白いチョークを持つ指先に釘付けになる。男性特有の、節くれ立った、けれど繊細な細長い指。
 その中指が私の中に埋まる瞬間を想像して、私はうっとりと目を閉じた。
 先生の白い肌。きまじめな、冷たい印象の瞳。薄い唇。私はそのからだじゅうすべてに、あまねくキスを降らせる場面を想像する。
 私は頭の中で相良先生をすっかり裸にしてしまった。現実の彼は、そんな私の淫らな視線を紳士的に無視して、数式の謎を解き明かしている。
 好きだ。
 私の頭の中は、相良先生のことでいっぱいだ。

 十二月に入ったばかりの街は、早くもクリスマス一色だった。
 賑やかな商店街を抜け、金木犀や松を強迫的に飾り付けた民家の庭のイルミネィションを横目に歩いて、コンビニの角を曲がる。角から二件目が、比佐子さんのピアノ教室だ。
「こんばんはー」
 チャイムを鳴らして、インターフォンに向けて声を上げた。
「開いてるわ、どうぞ」
 スピーカーの向こうから比佐子さんの声が聞こえたので、私は遠慮なくドアを開ける。
 玄関にローファーをきれいに揃えてから、スリッパを勝手に履いて客間に向った。
「いらっしゃい、ひかるちゃん」
 ピアノの前に座る比佐子さんが私に微笑む。
「じゃあ、始めましょうか」
 週に二回、私はこのピアノ教室に通っている。
 私は比佐子さんに続いて鍵盤を叩いた。
 もう二年も習っているのに、私の指はちっとも比佐子さんのようになめらかには動かない。少しはがゆい思いがする。
 三十分ほど鍵盤と格闘したころ、玄関が開く音がした。
 私は密かに息を飲む。
 足音が近付いて、客間のドアの向こうに相良先生が見えた。嵌め殺しのガラス越しに目が合って、私は軽く頭を下げる。相良先生は目だけで微笑んだ。

 比佐子さんの教室に通い始めたのは中学二年の春だ。まあ、ピアノを習い事を始めるには中途半端な年齢だと思う。
 比佐子さんは、母の友人の娘さんだ。
 音楽大学を出て中学の音楽教諭をしていたのだが、結婚を機に学校を辞め自宅でピアノ教室を開くことにしたのだそうだ。
 母は、短い間でも良いから習ってみないかと私に言った。友人の娘の門出に、少しでも貢献したいということらしかった。
 私は比佐子さんのことは子供のころから知っていたし、正直その新婚生活にも興味があった。純粋に、ピアノが弾けたら面白そうだと思ったのもある。私は比佐子さんの家に通うようになった。
 そしてそこで、相良先生に会ってしまった。
 ―――会ってしまった。
 相良先生は、比佐子さんの夫だった。
 初めて会ったのは、通い始めて一月くらい経ったころだったと思う。
 線の細い男性だった。神経質そうな瞳。ときどき、どこを見ているのか解らないときがある。または、皮膚の下まで見透かされているようなときが。硬い声音。高校で数学を教えているという。それを聞いた瞬間、私はその声で授業を受けてみたいと切実に思った。…思ったのを憶えている。
 教室に通い始めて約一年。私は受験生になり、いつしか、レッスンのあと暇な時間に相良先生に数学を教えて貰うようになっていた。
 比佐子さんが夕飯の支度をする、その隣で。
 二人きり。
 と言っても、先生はめったに無駄口を喋らなかった。あまり笑わない。硬い声音は、数式だけを呪文みたいに繰り返す。
 時折、比佐子さんに向けて「ヒトの言葉」で語りかける以外。
 ―――こちらを向いて。
 いつの間にか、私はそう思うようになっていった。

「クリスマスプレゼント」
「うん?」
 相良先生が、私の脛に唇を這わせている。
「何か、欲しいものはある?」
「…」
 薄暗い部屋の中。
 硬いベッドカヴァー、鏡張りの壁、有線から流れるクリスマスソング。
 相良先生は、制服のままの私の足に口付ける。
「…指輪かな」
 背中からベッドに倒れこんで、私は応えた。
 先生が這い上がってくる。私の制服のリボンをほどく。ブラウスのボタンを外す。
「指輪か。良いよ」
 私はブラウスを脱がす先生の手を絡め取って、自分の唇に引き寄せた。薬指に嵌められた、プラチナのリングに口付ける。
「?」
「コレ」
 微笑むと、先生は困ったように唇を歪めた。
「ひかるちゃん…」
「うそよ、先生。なんにもいらないわ」
 先生さえいれば。
 どうせ、先生はイブの夜を比佐子さんと過ごすのだ。
 ―――別に、平気。
 私は先生を独占したいわけではない。
 こうして、先生に抱かれることが出来るだけで。私は満足。
「先生、好きよ…」
 相良先生は応えずに、私の素肌に指を這わせた。

 あれは去年のバレンタインだった。二月十四日はちょうどレッスンの日で、私は放課後比佐子さんの教室に行った。鞄の中に、先生へのチョコレートを忍ばせて。
 私は受験を控えていた。高校は、相良先生の勤める学校に決めていた。本当ならピアノなんかに通っている場合ではないのだが、私は相良先生に会いたかったのだ。
 告白するつもりなんかは、なかった。ただ、お世話になっているお礼と称して、チョコを渡すつもりだった。本当は昨日深夜まで掛かって手作りした本命チョコだったんだけど。
 レッスンのあとは数学の時間。わざとらしくないように、本命だとバレないように。いつチョコを渡そうかとそわそわしていると、比佐子さんがお茶請けにと手作りのトリュフチョコを持って現れた。
「良かったら、食べて。余っちゃったの」
 そう言って照れ笑いをした比佐子さんは、とても大人だとは思えないほど可愛くて。
 そしてそのトリュフは、私が作ったチョコレートの十倍も美味しかった。
 多分、このとき私は嫉妬したのだと思う。
 夫婦の絆とか、余裕とか。手作りのチョコを目の前に置いて、私が先生を好きなことなど思いもしないのだろう比佐子さんの無神経さに。
 それまで私は、先生に告白することなど考えてもいなかった。比佐子さんのことも好きだし、二人の仲に割り込もうなんて考えたことはなかった。
 ―――けれど。
 このとき私は、自分の望みに気付いてしまったのだ。
 すぐに比佐子さんはキッチンへ消えて、応接間には私と先生だけが残された。
 数字を並べる唇。
 その仕草がふと止まって、
「合格したら、なにかお祝いをあげようか」
 先生はそう言った。
 先生は、少しずつ、私に数学以外の言葉を話し掛けてくれるようになっていた。
「遠慮しないで、何でも言って良いよ。あ、あんまり高価なものは無理だけど」
 そう微笑む先生の唇を、私はじっと見詰めた。
「…」
 欲しいものなら決まっている。
 至近距離に先生の微笑み。
「…先生」
「ん?」
「先生が欲しい」
 先生は驚いた顔で私を見た。隣のキッチンでは、比佐子さんがとんとんと包丁を使う音が聞こえている。
 言うなら今しかないと思った。
「私、先生が好きなの」
「…」
 祈るように。
 私は、先生を見詰めた。
 先生は少しの間試すように私を見据えて、
「大人をからかうんじゃないよ」と笑った。
 私の本心を見透かしたうえでの、鮮やかな大人の笑みだった。
 そして、すぐに私から目をそらす。
「先生」
「そりゃあ、君みたいに可愛い子に好意を持って貰えたらぼくも嬉しいけどね」
「先生」
「ほら、ふざけるなら、」
「先生。誤魔化さないで」
 ―――冗談かどうか、
 解ってるくせに。
 私は先生の太股に掌を乗せた。
 もう後には引けない。
 ここまで来たら絶対に、先生を落とさなければ。
「…君は、自分が何を言ってるのか解ってないよ」
 子供を諭すような先生の口調。私の指先は、そのまま先生の太股を這い上がる。
「…ひかるちゃん」
「解ってるよ」
 そのとき、キッチンから比佐子さんの声がした。
「ひかるちゃん、今日うちでごはん食べて行ったら?」
「っ…」
 先生の手が私の掌を掴んで制した。私は構わず、先生の中心に触れる。
「!」
 先生が焦るのが解った。ゆっくりと撫でると、そこはゆるやかに硬さを帯びていく。
 私の手の中で。
「ひかるちゃん?」
 キッチンから比佐子さんの声。
「はい、頂きます」
 私は先生に触れながら、明るい声で返事をした。
 先生は驚いた顔で私を見る。
「解ってるよ。不倫ってこういうことでしょう、先生」
 眼鏡の奥の先生の瞳を見詰めて、私は笑った。

「今時の子は本当に進んでるなあと思ったけどね」
 その春私は先生が教鞭を取る高校に無事合格して、そうして私達の関係は始まった。
「まさか処女だったとは、思わなかった」
「先生こそ、教え子と簡単に寝ちゃうなんて」
 先生はくすりと笑う。
「ぼくも男だからね。あんなに情熱的に誘われたら、断われない」
「そんなこと言って、今までも生徒と付き合ってたんでしょう?」
「…まさか」
 先生は誤魔化すけれど、私はもう知っている。相良先生が見た目ほど善良な男ではないことを。
 高校に入学してから知ったことだが、彼は女生徒に本当に人気があるし、顧問である美術部の卒業生と付き合っていたという噂もある。
 一見クールで、結婚してて、子供になんか興味がなさそうで。
 私達は自意識過剰な女の子だから、秘密の恋が大好きで。
 先生はそれを知っていて、楽しんでいるのだ。優しく餌を撒いて、興味がないふりで焦らすのだ。本当は、私達を抱くことに罪悪感なんかない。
 その証拠に、先生はあっさりと私を抱いた。
 私が「秘密」を守れそうな女の子だったからだと、私は分析する。
 多分、処女だと思わなかったというのは本当だろう。実際、やってしまってから後悔したのに違いない。
 処女だろうがなかろうが、いや、女子高生だろうがなかろうが。恋愛するのに、後腐れのない相手なんかいるはずがないのに。
 ―――でも。
 私は、少なくともそうであろうと思う。そうでなくてはいけない。独占欲とか嫉妬とか、そう言うものは私の恋愛にはいらない。私と先生の関係には。私は、先生と共犯者でなくてはいけない。
 縋り付いたら、終わってしまう。
 大丈夫。比佐子さんから先生を奪いたいなんて思わない。そんなことを考えたら先生が困るだけだから。割り切った恋愛ができる、私は充分に大人の女だ。
 放課後。先生から誘いのない、一人の放課後。街にはクリスマスソングとイルミネイションが溢れている。
 クリスマスプレゼントなんか、いらない。約束もいらない。何の意味もない。
 ただ、この先も、先生が私を抱いてさえくれたなら。
 ―――先生。
 気が付いたら、ピアノ教室の傍まで来ていた。
 先生の家が見える前に、私は踵を返した。

「オレと付き合ってくれないか」
「…」
 クリスマスまであと二週間に迫った昼休み。
 目の前で佇む少年(先生に比べれば少年だ)を、私はまじまじと見詰めた。
 上級生の三年。自信家の目。長めの髪は金髪に近い。左右の耳に三つずつ開いているピアス。腰から少し下げたズボンが、いかにも男の子だ。
 ―――ガキ、って感じだ。
 改めて、自分は先生に毒されていると思う。同じ年ごろの男の子(しかも、一応先輩なのだが)が、なんだかすごくコドモに見える。
「どう?」
「…はあ」
 私は曖昧に首をかしげた。
 彼が、一部の女子に人気のある男子なのは知っていた。曰く、女癖が悪い。女をすぐにやり捨てる。まああくまで噂だけど。
 それが、女の子には「危なくて格好いい」と写るらしい。私には、オトナぶって悪ぶっている子供にしか見えない。
 ―――先生に比べたら。
 ただの、コドモ。
「私の、どこが好きなんですか」
 私は訊いてみた。
「顔が可愛い」
 ―――呆れる。
 でも、正直、悪くない話だと思った。
 クリスマスまででもいい。すぐにバレンタインもある。恋人のイベント。先生と過ごせない週末。その空白の時間を埋める相手がいても良い。
「…良いですよ、付き合っても」
 私は応えた。先輩は、そうだろう、当然だというように微笑んでその場で私を抱き寄せたけれど、私にはどうでも良かった。

「ちょっとちょっとひかる、秋山先輩と付き合うって本当?」
 教室に帰ると、どこから漏れたのか、クラスメイトの裕美がそう話し掛けてきた。
「…まあ、そうみたい」
 つい先程の話なのに、情報が速い。誰かに見られていたのかもしれない。別に良いけど。
「だって、秋山先輩ってヤバいって噂じゃん。大丈夫なの?」
「さあ」
「さあって…この間も、二年が、先輩の子供堕ろしたって噂だよ」
「へえ。詳しいね」
「そんな、のん気に。酷い男なんだよ。やめた方が良いよ」
 妻がありながら生徒と寝る高校教師とどちらが酷いだろうか。
「まあ、付き合ってみないと解らないし、噂は噂だから」
「…やりすてられても、知らないよ。まあ、付き合うのはひかるの勝手だけどさ」
 もしかしたら裕美は、秋山先輩が好きなのかもしれない。
 なんと応えようかと一瞬思案したとき、がらりと、私の真後ろの扉が開いた。
 振り返る。相良先生が立っていた。そういえば五限目は数学だ。
 一瞬、眼鏡の奥の瞳と、目が合う。
 ―――聞こえた?
「…席に付きなさい。鐘はとっくに鳴っているよ」
 いつも通りの、冷静な声音だった。

 それと、同じ声で。
「誰と付き合うんだって?」
 先生は、ベッドの上の私に質問した。興味のない振りをして、しっかり聞いていたらしい。
「三年の、秋山マサル」
「B組の秋山か。女子に人気だ」
「たらしで有名」
 先生が私を抱き締めて口付ける。先生の舌は、指は、私をまるで雪みたいに溶かしてしまう。私は懸命にその舌先を追う。
「…高校生のくせに、いきなりそんなにうまくしたら引かれるぞ」
「おじさんに仕込まれたのがバレる?」
「おじさんか。…厳しいな」
 ふ、と先生は笑った。
 笑った。笑ってやがる。
 ―――苛めてやりたい、という衝動に駆られる。
「だから、私、もう先生とはしないから」
「…え?」
 聞き返された声には驚きが混じっていた。その響きに満足するのと同時に、私は引っ込みが付かなくなってしまう。
「当たり前じゃん?彼氏ができたら、不倫なんか終わりでしょ」
「…別に、ぼくは構わないよ?」
「そういう問題じゃないでしょ。私が構うって」
「だって、ぼくにも奥さんがいるし」
 これで対等とでも言いたいのだろうか。
 いや、正直言って、私もそういうつもりだったのだ。確かに。でも。
 気が付くと私は、ムキになって言い返していた。
「そういうのって、嫌い。私は一人のヒトとしかできないの。好きになったら―――」
「秋山のこと、好きなのか?」
「…」
 改めて尋ねられて、私は一瞬言葉に詰まった。
 先生は不思議そうに私を見ている。
 まるで、そんなわけないだろう、とでも言いたげに。
 見透かされているようで…先生を試しているだけだと見透かされているようで、私は反論せざるを得なかった。
「…好きよ。私、秋山先輩が好き。もう、先生のことは好きじゃなくなったの」
 私は自棄になって宣言する。一瞬だけ、相良先生は傷付いたような顔をした。
 ―――したように、私には見えた。

「…ひかる。ひかる?」
「はっ、え?」
 馴れ馴れしく名前を呼ばれて我に返った。
「お前、人の話聞いてる?」
 聞いてませんでした。
 とは言えないので、私は答える代わりに曖昧に微笑む。幸い秋山先輩はさして気分を害した様子もなく、すぐに車の話に戻った。
 喫茶店に入ってから三十分以上、ずっとマフラー(首に巻くのか?)だかホイールだかの講釈を賜っているのだが、何のことだかちんぷんかんぷんで全く意味が解らない。
 秋山先輩は十八になってすぐに教習所に通い始めて、今は仮免許の段階だそうだ。
 晴れて免許を取ったら何の車を買うか、それをどう改造するかということで彼の頭は一杯らしい。
 ―――いや、車のことだけではないか。
「…なあ、ひかる」
 秋山先輩は私の腰に腕を回して、耳元で甘く囁いた。
「…このあと、どうする?」
「…」
 早速か。
 私は、腰掛けたカウンターの向こう、一面の窓の外に視線を向けた。
 オープンテラスのこのカフェの、道路を挟んで向かい側、ここから丁度良く見える場所に、一軒のラブホテルがある。
 今も、一組のカップルが目隠しの壁の向こうに消えた。ここからだと顔まではっきり見えてしまう。
「ちょっと休まねえ?」
 特に、覚悟も嫌悪もない。付き合うってそういうことだ。
「…良いですよ」
 告白されたときと同じく、軽い気持ちで私はそう答えた。
 今日はピアノ教室の日だが、私は比佐子さんの所に行く気はなかった。先生には学校で会ったけれど、会話はない。あれ以来メールも電話もない。いや、もともと、まめにメールをしたりする関係ではなかった。
 放課後待ち合わせて、ホテルでセックスする。ただそれだけの関係だったのだ。
 ホテルに入ると、先輩はフロントで部屋を選びカードキーを受け取た。
 ―――手馴れてる。
 女たらしだという噂は伊達ではないようだ。
 肩を組まれて、部屋に入る。私は先輩の腕から逃げるようにソファに腰掛けた。
「わあ、きれいな部屋ですね」
「そーだな」
 先輩が隣に座る。興奮した雰囲気が伝わってくる―――私は少し緊張した。
「…なあ」
 息の多い熱い声でそう囁かれて、思わず体がびくんと跳ねた。
「いいんだよな?」
 私の答えを待たずに、先輩は私にキスをした。部屋に入ってからまだ三分だ。
「…せ、せんぱい」
 私は思わず体を捩る。先輩は力強く私を抱き締めた。逃げるに逃げられない。
「っ、先輩っ」
 キス。口の中に、先輩の生暖かい舌が入ってくる。
 ―――気持ちが悪い。
 私は顔を反らした。
「…ひかる…」
 耳元で囁かれる。熱っぽい、興奮した声。ぞくりと、どうしようもない嫌悪感が湧いた。
「ちょ、ちょっと、待って!」
 力一杯両腕を伸ばして抵抗すると、先輩は私を抱く力を緩めた。
「…なんだよ。ここまで来て」
「なんだよって…」
 …なんだろう。
 聞かれて、はっとした。
 するつもりだった。そのつもりで来た。なのに、どうして。
 ―――気持ちが悪い。
「ご…めんなさい」
 付き合うってもちろんそういうことだ。キスまでが早いとか、セックスする気はまだないとか。そんな甘い考えで恋人になる気は私にはない。
 なのに。
 体が、思わず拒否した。これはどういうことだ?
「…なんなんだよ」
 この場を取り繕う言い訳を、私は探した。何とかして、今日、彼に抱かれずに逃げ切ることのできる言い訳を。
 そんな自分に驚いた。
「…クリスマス」
「?」
「クリスマスまで、待ってください。私、初めてはクリスマスにしたいって、決めてたから」
 苦しい言い訳だ。なんて少女趣味な。言ってるほうがバカらしくなる。
 でも、どうやらその少女趣味なところが先輩に効いたらしかった。
「そうか。そういうことか。まあ、女はそういうの好きだよな」
 先輩は一人でうんうんと頷いて、私をぎゅっと抱き締めた。
「焦っちゃって、ごめんな。俺、ひかるのことが本気で好きだから、待てるよ」
「…」
 静かに抱き締められながら、私も好き、と答えることはどうしても出来なかった。
 そう言えば先生も、好きだと答えてくれたことはない。

「あら、いらっしゃい、ひかるちゃん」
 遅れて訪れた私を、比佐子さんは笑顔で迎えてくれた。
 レッスンの時間はとっくに過ぎているはずだが、比佐子さんは怒らない。私は彼女が怒っているのを見たことがない。夫婦喧嘩をしているところも。
 私が、先生と寝ていると知ったら。
 どういう顔をするだろうか。
「ごめんなさいね、今夕飯の支度の途中なの。すぐに戻ってくるから、それまでこの間の所までの復習してて?」
「こちらこそ、すみません、こんな時間にお邪魔して」
「良いのよ。うふふ。仕方ないわよね」
 そこで、比佐子さんは意味ありげに笑った。
「?」
「ひかるちゃん、彼氏が出来たんですって?」
「え…」
 ちょうどその時、扉の向こうに相良先生の姿が映って、私は心臓が止まりそうになった。
「怒らないでね?主人に聞いたの」
「あ…」
 私は我に返る。
 相良先生が?
「…怒っちゃった?」
「あ、いいえ、そんな、怒るなんて」
 そう答えながら、私は動揺していた。
「良かった。だから、今日はデートだと思うって言ってたから…うふふ。あ」
 そのとき、薬缶の湧く音がした。ごめんなさいねと断って、比佐子さんがキッチンへと消える。入れ替わりで、ドアの向こうの相良先生が応接間に入ってきた。
「…いらっしゃい」
 相良先生は微笑んだ。いつもと変わらない声で。
「デートじゃなかったの?」
 無神経な笑顔で、私にそう聞く。
 ―――眩暈がした。
 このひとは私のことを好きではないんだと、思った。
 セックスなんか、好きでなくとも出来る。気持ちが通じることと、体が触れ合うことは違う。
 ―――でも。
 それでも私は、先生が少しでも私のことを想ってくれているのだと信じたかった。
「ひかるちゃん?」
 黙りこんだ私を訝しく思ったのか、先生は私の顔を覗き込む。
「先生、クリスマスの予定は?」
「ん?…ああ、別に、普通に仕事して、ケーキでも買って帰るけど」
 帰る。比佐子さんと住むこの家に。それを、笑顔で私に告げる無神経さ。
 解ってる。解ってて始めたことだ。
「私と過ごして」
「え?」
 それでも、先生の一言一言が、笑顔が、私をこんなにも追い込む。
「学校も休んで、一日中私と。じゃなかったら、比佐子さんにも学校にも、全部バラすから。私と先生のこと」
 先生の笑顔が凍りついた。
 私を見るその表情がまるで化け物でも見るように歪んでいくのを、私はぼんやりと眺めていた。

 来なければ良いと、思った。
 ジングルベルが流れる街。安っぽいクリスマスツリーが、あらゆる店の軒先でちかちかと光っている。
 学校は休んだ。先生も、約束どおりに来るつもりなら休んでいるはずだ。
 ―――来なければ良いと思った。
 そして、明日学校で私を叱り飛ばしてくれれば良い。馬鹿なこと言うなと。毅然とした態度で。いつものクールな声で。
 来て欲しい。でも、来て欲しくない。私は、私のことなんか軽くあしらえる先生が好きなのかもしれない。
「…ひかるちゃん」
 名前を呼ばれて、顔を上げた。
 心なしかやつれたような顔をした、相良先生が立っていた。

 部屋に入るなり、先生はソファに座り込んで大きく溜息を吐いた。額に手を当てて天井を見上げる。
「…勘弁してくれよ」
「お風呂、先に入りますか。後にする?」
 そんな先生を無視して、私はさっさと制服を脱ぐ。
「頼むからもうこういうのはやめてくれ。関係を続けたいならフェアでいないと、解るだろう?」
「…」
 フェアってなに?
 私に恋人ができて、先生には奥さんが居て。全然フェアなんかじゃない。私が先生を好きな気持ちだけが、宙に浮いてしまう。
「先生は、私のこと、好き?」
 下着姿で、私はそう問い掛ける。
 鞄の中で、鈍く震えながら携帯電話の鳴る音がした。秋山先輩だ。待ち合わせの時間はもう三十分近く過ぎている。
「好きだ。好きだよ。だから、比佐子に言うなんて嘘だろう?」
 まるで哀願するような先生の姿を、私は見下ろした。
 ―――最高に笑える。
「バカみたい、先生。ふふ」
 待ち合わせ場所である、あの、ホテルの目の前のオープンテラスで。
 秋山先輩は、私たちの姿を見付けることができただろうか。
 笑いながら、私は涙を堪えた。
                  



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