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天使の庭



 僕が子供の頃住んでいた港町の外れにある、小高い丘の上の洋館は何年も住む人の無い廃墟だった。
 明治の半ばに英吉利人が建てさせたという豪奢な屋敷は古く、どっしりとした重厚な赤レンガの壁に蔦の這う様子はまるでそこだけ異世界で、一種異様な雰囲気を醸し出している。そこは近所の住民にはちょっとしたオバケ屋敷として有名だった。枯れた噴水を中心に据える広い庭には雑草が鬱蒼と茂り、かつては手入れの行き届いていただろう花壇の花々が野生を取り戻して庭を占拠し、特に真っ赤な薔薇は門にまで迫るように荒涼とその腕を伸ばしているのだった。
 あそこに近付いてはいけない、と大人は口々に言った。
 洋館を建てた英吉利人は人食う鬼だったと云う噂が残っていて、人々は廃墟を恐れた。それは今思えば異国人に対する差別であったのだろう。長く閉じた時代が終わり、港には異国の船、町には異国人が溢れた。それでも町に根を下ろし始めた彼らはやはりまだまだ異質なものだったのだ。
 明治の終わり、館の主は仕事を終えて自国に帰ったのだとも、はたまた病に倒れたのだとも云われている。真相は不明だがとにかくそこは主を失い、庭が荒れ、壁が朽ちてゆくにつれて館にまつわる不気味な噂はさらに真実味を増していくのだった。
 誰もいないはずの窓に人影が動く。夜な夜などこからか少女の悲鳴が聞こえてくる。庭の薔薇の棘に刺されるとそこから肉が腐って死に至る。まことしやかに噂は囁かれ、いまやその屋敷には近付くものすら稀だった。
 そんなオバケ屋敷に新たに人が住み着いたのは僕が十二の少年だった頃、大正十三年の春のことだ。
 町の人も気付くことのないような、ひっそりとした引越しだった。実際、そこに人が住み始めたことを知っていた人間が僕のほかに何人いただろうか。
 僕がその日そこを訪れたのも屋敷が無人だと思えばこそだった。オバケ屋敷に咲く薔薇を一輪手折って持ち帰るというのが当時僕たちに流行した度胸試しの一つだったのだ。
 夕暮れ時、僕は屋敷に忍び込むため廃墟の裏手から庭へと侵入した。門には堅固な南京錠が掛かっていて開かないし、よじ登り飛び越えるには僕には少々高すぎる。
 屋敷の周りにはぐるりとレンガの壁が廻らされていたが、裏に廻れば子供が一人腹ばいで漸く通れるような穴が開いている。僕は日が暮れる前に屋敷の庭へ入り、蕾の開き始めた薔薇の中からなるべく見栄えのするものを選んで一輪持って帰るつもりだった。これを明日の朝学校へ持って行けば仲間から賞賛を得ることが出来る。
 僕は壁の穴を潜り、裏手から雑草を掻き分けて正面玄関へ廻った。庭の荒れ具合は相当なもので、噴水の周りに敷き詰められた石畳の隙間からもびっしりと草の芽が伸びている。
 我が物顔で庭を埋め尽くす薔薇の枝は沢山の花を付けて、まさにこれから満開を迎えようとしているところだった。どの花にしようか、なるべく大きなものがいい。庭を見渡しあれこれ物色していると、突然頭上でカタリと音がした。
 僕はひっと小さく悲鳴をあげる。オバケなんかいない、そんなの迷信だ、怖いことなどなにもない。そう啖呵を切って薔薇を持ち帰る約束をした僕は、しかし屋敷の持つ異様な雰囲気にすっかり呑まれていた。夕暮れ時のうら寂しい空気が余計に僕を緊張させる。
 ―――怖くなんか、怖くなんかないぞ…!
 自分をなんとかそう叱咤して恐る恐る物音のした方を見上げれば、二階のバルコニーに面した窓のカーテン越しにするりと人影が動くのが、見えた。
 住む人もないはずの窓に人影が動くそれはまさに屋敷にまつわる怪談そのものだった。
 僕は呆然と、隠れることも出来ずに窓を見詰めていた。人影はそうっと手を伸ばしてレースのカーテンを開く。注意深く見てみればそのカーテンは真新しく、最近付け替えられたものだと分かっただろう。しかしその時、僕にはそんな余裕がなかった。
 まず現れたのは細く小さな指先だった。目に焼きつくように白い華奢な指が静かにカーテンを開き、そして、次にこれまた雪のように白い顔がその隙間からちらりと覗いた。
 それは恐ろしいほどに美しい少年だった。
 歳は自分と同じくらいか、僅かに下だろうか。白い白い膚に、まるで神が彫刻したかのような素晴らしい配置の目鼻、そして漆黒の髪。きれいに切り揃えられたその短髪からなんとか、ああこれは少年なのだと判別できるのだった。もしもそれが肩まで伸びていたなら、この上ない美少女に見えたに違いない。
 少年はまっすぐに僕を見下ろしていた。
 ぱちくりと目を輝かせるそのしぐさで、ああ、これは生きている人間なのだと僕は理解する。
 僕は少年としばし見詰め合う。まるで人形のように美しいけれど、それはオバケでも幽霊でもなく、確かに一人の生きた子供だった。
 からから、と音を立てて窓が開く。少年はそうっとバルコニーに足を踏み出して、そして猫足のような曲線を描く白い柵に手を掛けると身を乗り出すようにして僕を見た。
「…こんにちは」
 鈴の音のような、というのは陳腐な表現だと思うけれど、まさに鈴を転がしたような愛らしい声が僕に向かって降って来た。そうでなければ、天使の囀りの様なとでも言えば好いだろうか。そう、彼の姿はまさに地上に降り立った天使のようだった。
「そこで何をしているんですか」
 少年は訊ねた。僕はどぎまぎして思わず俯きながら、なんとか声を出して応えた。
「…ば、薔薇を一輪貰おうと思って」
 そうか、この屋敷には人が住み始めたのか。僕は漸く理解することが出来た。人が住んでいるならば、勝手に敷地に入り込んだ無礼を詫びなければならない。
「あ、に、庭に勝手に入ってしまって、ごめんなさい」
「薔薇…」
 謝る僕の言葉を無視して少年は呟いた。これだけ咲き乱れる薔薇に今初めて気が付いたとでもいう様な、そんな呆とした口調だった。
「あの、君はそこで何をしているの」
 僕は思わず訊いた。少年はまるで寝巻きのような藍染の浴衣を羽織っただけの姿だった。透けるような肌の白さは異常で、彼は病気か何かで療養しているのかもしれないと僕は思った。
「…ぼくはただここにいるんです」
 少年は言った。唇は可憐に赤くて、僕はそれの動くさまをもっと傍で見たいと思った。
 バルコニーの横にはちょうど、楠木の大樹が枝を伸ばしていた。僕は木登りが得意だ。
 突然楠木に登りだした僕を、彼は驚いて見詰めていた。僕はあっというまにバルコニーに一番近い枝によじ登り、そこからバルコニーに飛び移った。
「こんにちは」
 少年の前に立ち、僕は改めて挨拶した。思ったとおり、近くで見る少年は下から見上げるよりももっともっと美しかった。
「…驚いた。木登りが得意なんですね」
 微かに微笑んだ彼に褒められて、僕は有頂天になった。
「君、いつ引っ越してきたの?僕はこの近所に住んでるんだけど全然 気付かなかったよ。ここ、長い間空き家だったんだ。オバケ屋敷って呼ばれてる。あの薔薇を一輪持って帰るのが肝試しなんだ」
 僕は堰を切ったように彼に語り掛けた。少年は愛らしく僅かに首を傾げながら僕が喋り終わるのを待って、オバケ屋敷、と呟く。
「…あ、ごめん…住んでいる人にオバケ屋敷だなんて」
 仕舞った、しくじったと思ったが、少年は気を悪くした様子もなくクスリと笑うだけだった。
「なるほど、それであなたはお花を取りに来たんですね」
 彼はふと遠くを眺める。僅かに眉を顰めて、では早く薔薇を持ち帰ったほうがいいと呟いた。低く、声を落とすように。辺りには薄墨を溶かしたような夕闇が広がり始めていた。
「もうすぐあの人が帰ってきますから」
 あの人?と僕は聞き返す。少年はそれ以上言わず、さぁ早くと僕を急かした。
 そのただならぬ様子に、僕は思わず頷くしかなかった。
「あ、あのさ、じゃあ今日はもう帰るけど、今度一緒に遊ぼうよ。僕がこの町を案内するよ」
 僕は彼の前から去るのが名残惜しくてそう提案した。この美しい少年となんとしても友達になりたいと思った。町に連れ出して仲間に紹介したらきっと皆、一発でこの子のことを好きになる。
 少年はしかし、寂しそうに微笑んで首を振った。
「ごめんなさい。ぼくはこの部屋から出ることはできないんです」
 ああ、やはり彼は病気なのだと僕は自然と納得した。それならじゃあ、明日も来てもいいかい、と僕は訊く。
「あまり、来ないほうが良いですよ」
「人に移るような病気なの?」
 子供の無神経さで僕は尋ねた。少年はまた首を振って、そういうことではないんです、と言う。
 近所の教会から夕刻の鐘が響いてきた。少年は弾かれたように顔を上げる。
「さぁ、早くお行きなさい。いいですか、日が暮れたら決してここに近付いてはいけません。ではさようなら」
 有無を言わせぬ調子で少年は言い、口を開きかけた僕を残してさっさと部屋へ戻るなりカーテンを引いてしまった。
 一人取り残された僕はなにかしら恐ろしいものを背筋に感じて、言われるがまま急いで楠木を降り、薔薇を手折ることも忘れて駆け出した。
 壁の穴を潜り抜けて立ち上がり、走って屋敷の先の角を曲がったその時、一台の自動車とすれ違った。
 四角ばった赤い自動車はあの洋館の前で停まり、中からはまるで西洋のキネマに出てくるような気障な洋服を着た男が一人降りてきた。あれが「あの人」なのだろうか。僕はどぎまぎしながら、一目散にそこから走り去ったのだった。



 それは忌まわしい記憶だ。
 思えばあれは僕の初恋だったのだと思う。相手は少年だったが、僕はこの歳になるまでついぞあんなに美しい人間を見たことが無い。
 僕は確かに恋をしていた。しかし「あの時」まで、そんな自分の気持ちには気が付くこともなかった。
 初めてあの屋敷で少年に出逢ってから、僕は頻繁に彼の元へ通うようになった。彼は始めの頃は戸惑っていたようだが、逢瀬を重ねるたびに僕らは少しずつ打ち解けることができた。
 また幾度か彼を訪ねるうちに、どうやら彼は病を患っているわけではないらしいことが解った。奇妙なことだが、何か別の理由があって彼は部屋から出ることができないらしい。
 彼の部屋には外側から鍵が掛けられている。西洋の大きな家というのは部屋ごとに厠がついているものらしく、暮らすのに不自由はないと彼は言った。
 どうやら軟禁されているようだ、と気付くのに時間は掛からなかった。どういう理由なのか、それは彼の呼ぶ「あの人」の仕業なのか。彼はその話になるといつも曖昧に微笑むだけだった。
 君もこの楠木を降りて一緒に外に行こうよ、と僕は何度も彼を誘った。木登りが得意でないのなら僕が支えてあげるから、一緒に外へ。
 しかしそれを聞くと彼は決まって少し困ったように首をかしげ、ごめんなさい、と謝った。それがあまりに寂しげな様子なので、僕はどうしても無理に彼を連れ出すことが出来ない。歯痒かった。きっとあの男が彼を閉じ込めているのだ。その証拠に、彼はあの男の帰りをとても恐れているように見えた。
 今思えばそれは僕が男に見付かることをこそ恐れていたのだろうが、子供の僕にはそれが分からなかったのだ。あいつは悪い奴なのだと、僕は自然に思い込んだ。
 あの男が出かけるのは週に数度、昼過ぎから夕暮れまでの短い時間で、僕はその間にしか彼を訪れることができなかった。庭に自動車のあるときには決して来ないように、と彼から強く言われていた。
 彼の白い肌に傷の付いていることがあるのに気付いたのはいつ頃だったろうか。彼はいつもきちんとした着物でなく浴衣や、または西洋風の寝巻きを着ていたが(だからこそ僕は彼を病人だと思ったのである)、時折その胸元や首筋に、まるで赤い薔薇の花びらのような痣が覗くのである。
 当時の僕には、それは殴られたか抓られて出来た傷跡だとしか思えなかった。実際、手や足に切り傷や擦り傷のあることもあった。あの男がこの少年に暴力を振るっているのだろうか。いくら問い詰めても、やはり彼は決して答えない。
 いつからか僕は、いつか自分が彼をここから救い出すのだと密かに固く誓うようになった。
 あの男はきっと悪魔に違いない。天使のように美しい少年が悪魔に捕らえられている。僕が必ず君を助けてあげる。僕はまるでお姫様を救う騎士のような気持ちだった。
 そう、あれは僕の初恋だったのだ。

 事件が起こったのは秋の終わりだった。
 その日は昼を過ぎても庭に赤い自動車があった。最近、あの男が外出することが減っていた。彼に会いに行こうとしていた僕は落胆して、帰路につこうとしたところだった。
 屋敷の中で、ガシャンと何かが割れる音がした。続いて短い悲鳴。それが彼のものだと気付いた瞬間、僕は駆け出していた。彼が暴力を振るわれていると直感的に知った。あの男がいるうちは決して近付いてはいけないと言われていたのに、僕は無我夢中で彼を助けなければと思った。
 腹ばいで壁の穴を抜ける。なるべく物音を立てないように、姿勢を低くして庭を駆け抜け、そしてあのバルコニーへと続く楠木に登った。
 窓は閉じていて、カーテンが引かれている。
「いやっ」
 彼の悲鳴は続いていた。
「そんなに逃げたいのか!」
 喧騒は多少の物音を隠す。男が声を荒げているのは有難いことだとも言えた。僕はさっと枝からバルコニーへと飛び移った。お尻のポケットには自分で作ったパチンコが突っ込まれている。いつかこんな日がくることを予感して、常に持ち歩いていたものだ。
「いいえ、いいえ、逃げたいだなんて」
「嘘を付け!」
 窓硝子越し、カーテンが開いた僅かな隙間から僕は中の様子を窺った。どうやって助けるかなど考えてはいなかったが、窓を割ってどうにか彼を連れ出すことができないかと僕は闇雲に考えていた。
 ぱんと平手打ちをする音がして彼がベッドに倒れ込み、男がその上に馬乗りになる。僕はその時初めてはっきりと男の姿を見た。
 背の高い男だった。高価そうな洋装に身に纏い、長めの癖毛を後ろに撫で付けているのが乱れ、額に一筋はらりと垂れている。どこか外国の血が混ざっているのだろうか、目鼻立ちのハッキリした顔が怒りで歪み、まるで本物の鬼のように恐ろしかった。
 男は馬乗りになったまま、少年の浴衣を肌蹴させた。その肌の目を射るような白さに僕はぎくりとする。何が始まるのか分からなかった。
「なぁ、お前は俺のものだろう」
 突然男の声から怒りが消え、哀願するかのような響きに変わった。
「…はい」
 美しい少年は頷く。男は自嘲気味に笑い声を上げ、そして少年に口付けした。
 僕は思わず息を呑む。なにか、よくないことが始まろうとしているのが解った。
 男は少年の浴衣をすっかり剥ぎ取ってしまうと、その白い素肌のあらゆるところを吸い始める。あの赤い、花びらのような痣がこうして付けられたものだと僕は知った。男が少年の肌を吸うたびに彼の可憐な唇が開き、よく耳を澄ませば、ああと小さく声を上げているのだった。男は少年の下半身に顔を近付け、その幼い性器にまで舌を這わせる。僕の心臓は早鐘を打ち、その音が余りに大きいので彼らに気付かれてしまうのではないかと思った。ああ、へいたいさん。少年は甘い、猫の鳴くような声で男を呼ぶ。
 僕は勃起していた。耳鳴りがするほど緊張して、パチンコを握り締めた手のひらは汗でびっしょりだった。それはやけに粘つく厭な汗で、気が付けば背中も首もじっとりと濡れている。
 男がズボンの釦を外し、自らの男根を取り出す。少年のそれに比べて、欲望に勃ち上がった男のそれはまるで凶器のようだった。
 男は少年を貫く。少年は一際大きく喘いだ。白い喉が仰け反り悩ましげに眉が顰められる。そしていやいやをするように首を振り―――。
 その濡れた黒曜石のような瞳と、窓硝子越しに、目が合った。

 それからはどうやって家まで帰ったのか記憶が無い。とにかく僕は脱兎の如く家まで逃げ帰り、食事も摂らずに布団に潜り込んだ。両親が心配して様子を見に来たが、理由を言えるはずもない。見てはいけないものを見てしまった。邪悪なものを。僕は意味もなく、うずくまってただ念仏のように繰り返し謝り続けた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。やはりあれは悪魔だったのだ、鬼だったのだ。あんなことは鬼の所業に違いない。僕は少年の言うことを聞かなければいけなかった。あれは見てはいけないものだ。忘れようとすればするほど、少年の美しい肢体が脳裏に焼きついて消えない。
 薔薇のような痕の浮き上がる白い肌、喘ぐ赤い唇、空を掻く足、男の背中に爪を立てる小さな指先。僕は布団の中で繰り返し謝り、泣きながら何度も何度も自慰をした。



 次に僕があの屋敷を訪れたのはそれから二週間も経った頃だ。
 ショックから立ち直るには時間が要った。その間僕は毎日、どうしたら彼を救えるのかとそればかりを考えていた。あの、悪魔に囚われた可哀想な天使を助け出すにはどうしたら良いのだろうと考え、彼の姿を思い出すたびに自分を慰め、罪悪感で胸が一杯になった。そしてそのたびに、償いのように、僕が彼を救わねばならぬのだと思い込んだのだった。
 幼い頭で考えて考えて、僕は漸く、これは自分だけの力ではどうしようもないと悟った。
 僕は本当に愚かな子供だった。他の多くの少年と同じように、自らの正義感が何よりも尊いものだと信じていた。僕はまず、思い切って両親に事の次第を報告した。洋館に怪しい男が住んでいて、子供を攫って虐待しているのだと。あの日のことだけはどうしても口に出すことは出来なかったが、男がどうも混血のようだと付け加えるのは忘れなかった。
 両親にとっては誰にも知られずあの洋館に住んでいる人間だというだけで不審さは充分のようだった。彼らは驚き、まず危険な場所へ入り込んだ僕を叱った。そして、なぜもっと早く知らせなかったのだと言った。あとはお父さんに任せなさいと頭を撫でられ、妙に興奮したのを覚えている。やはり僕は正しかったのだという誇りが湧いた。ああこれであの少年は救われる、そう思った。
 それから数日が過ぎ、近所の大人が結託して警察に直訴したのだと聞いた。今日辺り、屋敷へ乗り込んでくれるに違いない。あの男が彼を監禁しているのがはっきりすれば、警察はきっと何某かの手段を講じてくれるだろう。
 僕は嬉しくて、きっともうすぐ君は助かると、自分の口で彼にそう伝えてあげたかった。彼もそれを望んでいるのだと、僕は信じて疑いもしなかった。
 夕暮れ時。僕は屋敷の庭に赤い自動車がないことを確認して壁の穴を潜り抜け、楠木を登った。あれきり会っていないのが気まずいが、今は喜びが気まずさに勝っている。
 僕はいつものようにバルコニーの窓硝子を叩いた。
「…きっと来てくれると思っていました。
 彼は僕を部屋に迎え入れ、そう言って淡く微笑んだ。
 彼はなぜかいつもと違い、きちんと洋服を着込んでいた。折り目正しい紺の半ズボンをサスペンダーで釣り、白い開襟シャツを着ている。ざわりと厭な予感が閃いた。
「…どうしたの、その格好」
「さようならです」
 予感は当たった。微笑んだままそう告げる彼の腕を、僕は思わず掴んだ。
「な、何言ってるんだ!ちょっと待って。あのね、もうすぐ、ここへ警察が来るよ。あの男は捕まる、君は助かるんだよ」
 僕は一生懸命にそう説明した。説明しながら、ああこの少年はきっとそんなことは知っているのだと思った。だからここから逃げようとしているのだ。
 ―――あの男と一緒に?
「ねぇ、待ってよ、なんでだよ。僕は君を助けたいんだ!」
 少年はただ首を振り、必死に縋り付く僕の腕を優しく振りほどいて言う。
「ありがとう。…ごめんなさい」
「何で?どうして、わからない!分からないよ!」
 僕は声を荒げ、精一杯に涙を堪えた。男が人前で泣いてはいけないと思ったからだ。彼の前で泣いたら格好悪いと思ったからだ。
「行かないでよ。僕は…」
 君のことが好きなんだ。
 彼はへたり込む僕の頭を優しく抱いて、ありがとう、ともう一度言った。
「ぼくも君のこと、好きだったよ」
 頭上から降る彼の声は優しくて、僕の瞳からはとうとう大粒の涙が零れた。
 だったらどうして。どうして。どうして。
「だけど、ぼくは彼のことを」
 その先は聞こえなかった。
 僕は耳を塞いだし、彼が何か口にしたかどうかは判らない。
 涙はあとからあとから溢れて、僕はしゃくりあげて動けなくなる。少年はしばらく両手で僕を包み込んでいたが、やがてそうっと腕を放して立ち上がった。
 もう彼を止めることはできないんだ、と僕には分かった。そしてきっと、もう二度と会えない。
 僕は顔を上げることも出来なかった。彼が部屋の扉を開ける音がする。キイと軋んだ音を立ててその扉は僕の前で初めて開き、そして、閉じた。
 あとには僕のすすり泣きだけが残り、こうして僕の初恋は終わったのだった。



 彼らは何の足跡も残さずに消えてしまった。もともとそこに人が住んでいたことを知る人はとても少なかったから、まるで彼らの居たこと自体が僕の見た夢だったのではないかと思えるほどだった。
 子供を攫う男のことは少しの間町の話題になったが、それもすぐに忘れられてしまった。洋館は相変わらずオバケ屋敷として有名で、変わったことと言えば少女の悲鳴の噂が少年のそれに取って代わったことくらいだ。

 僕はそれ以来、二度とあの庭に入ることは無かった。
 今では老朽化が進んであの洋館も取り壊されてしまった。新しく土地を買い取った会社がそこにビルヂングを建てて、あの庭は跡形もない。




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