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この世で二人きり



 まずその日最悪だったのは、街で偶然岡内博之に寄り添う島崎麻衣を見てしまったことだ。

  「お前、最近雛香ちゃんのとこに顔出してやってんのか」
 ある日の夕食時、思い出したように父が言った。
 雛香。久々に聞いた名前だ。私は咄嗟に眉間が歪むのを無理に抑えて、ああ、そういえば、と無邪気さを装った。
「うーん、そういえば、最近はあんまし」
「まったく冷たい娘だね、お前って奴は。昔はあんなに仲が良かったのに……小松さんとこも大変なんだから、たまには会いに行ってやりなさい」
 非難めいたお父さんの言葉に、私は内心溜息を吐く。
 昔から「雛香ちゃんが俺の娘だったらなあ」と堂々と言ってはばからない雛香ファンのお父さんは、こうして時々思い出したように私に雛香に会いに行くことを勧める。
「お前が行かないから出てこないんじゃないのか」
「何言ってんだか。買いかぶりすぎだよ。雛香には雛香の事情があるんでしょ」
「そんなこと言ったって、お前、昔は雛香ちゃんにべったりだったじゃないか。お前が男の子で雛香ちゃんを嫁に貰ってくれたらどんなに良かったかってお父さんは」
「バッカじゃないの」
 無神経にも程がある。私は箸を置いて席を立った。
 それにしても、たしかに最近雛香を見ない。
 中学時代は学校にこそ来なかったものの、たまに休日は私と一緒に買い物に行ったりしていた。それが最近はぱったり音沙汰がない。
 高校に入って、部活に入ったり新しい友達ができたり、何より彼氏ができたりして忙しくて私は雛香のことをすっかり忘れていた。そうか、彼女は未だ私の隣に住んでいるのである。
 ときどきおばさんに挨拶したりするけれど、無意識に雛香の話は避けていたのだ。
「とにかく、たまには遊びに行ってやれよ。幼馴染なんだから」
「はいはいはい」
 適当に返事をして、私は自室へと続く階段を駆け上がった。
 私は小松雛香が苦手だ。
 雛香と私は生まれたときから隣同士に住んでいる。父の言うとおり間違いなく幼馴染というやつで、それこそ物心着く前から私たちは一緒に遊んでいた。
 そして私は、ほんの小さなころから彼女のことが苦手だった。

 雛香は可愛い。 
 細くて、小さくて、でも足が長くて、とにかく人形のように整った容姿をしている。
 たいていの女の子は彼女の横に並ぶと霞んでしまうし、だから小さな頃から無意識に美しさを競い合う女児たちはみんな雛香を疎遠にした。
 雛香には私以外の女友達がいない。みんなが、雛香ちゃんと写真に写るのは嫌だし、隣に並ぶのさえも嫌だと言う。当たり前だ。どんなに可愛い子でも、雛香と並べるとまるで欠点だらけに見えてしまう。
 ただ横にいるだけで彼女は周りの女の子をこき下ろしてしまうのだ、本人にまったくその気がなくても。
 だから当然、私も雛香が苦手だった。
 けれど私には雛香から逃げることは許されなかった。生まれた頃から親同士仲が良くて、しかもお隣さんである。折に付け私は雛香と並ばされ、小さい頃からかかなくてもいい恥をずいぶんとかいた。
 お正月に着物を着ても、クリスマスにドレスを着ても、可愛いわねぇと誉められうっとりと溜息を吐かれるのはいつでも雛香で、隣の私は添え物でしかない。
 おまけに雛香は体が弱かった。
 彼女は陽にあたっても雨に打たれてもすぐに倒れ、熱を出し、喘息を起こす。命に関わるような大病はないくせに、とにかく雛香はいつでも青い顔をしていた。
 儚く繊細で美しい、雛香は絵に描いたような美少女だった。
 分かるだろうか。隣にいる私がいつもどんな思いをしてきたか。

 自分で言うのもなんだが、私の容姿は十人並みである。
 特別醜いとは思わないが、特に美しくもない。そんな私が雛香と並べば差は歴然。
 雛香の美しさは私の長所を隠し、短所を浮き上がらせた。
 子供の私が本能と周囲の反応によって知らされる美醜の劣等感に打ち勝つのは容易なことではなかった。立場上、他の子達のように避けたりいじわるをすることはできない。それに何より、それでは負けを認めることになってしまう。これからも彼女の傍に居続けなければいけないのに負けを認めることがどれだけ屈辱か。
 とにかく、私が雛香に劣等感を持っていることを周囲に気付かれるわけにはいかなかった。周りの大人たちがわざとらしく私に気を使うのも腹立たしいではないか。
 だから私は、すすんで雛香を守った。
 雛香は可愛いねといつでも誉め、倒れれば介抱し、私は雛香が好きだよと言い続けた。他人には理解し難いかもしれないが、「雛香に負けていることなんて私は全然気にしてないわよ」と周囲にアピールすることこそがなんとか私のプライドを保つ方法なのだった。
 私は女の子らしい仕草をやめ、髪を伸ばすのをやめ、スカートをはくのをやめた。

 小学校を卒業するまではそんな風になんとかやり過ごしたが、問題はそのあとだった。中学校には指定の制服がある。ボーイッシュな個性を主張できる私服ならまだしも、雛香と同じ服装で並んで歩くことなどまるで自殺行為だ。
 中学に入ると幸い二人のクラスは別れたが、その頃にはすっかり雛香のお守り役になってしまっていた私は、毎朝夕、雛香と登下校するのが暗黙の約束になっていた。相変わらず雛香には友達が出来なかったし、私の両親も雛香の両親も私が雛香を守るのが当たり前だと思っていた。
 何より私には今更雛香を一人にすることは出来ない。私は雛香のことが大好き、周囲にそう思われていなければならなかったのだ。
 唯一私を保つためのその方程式は、逆に雛香から私が離れることを許さなかった。
 雛香と歩くと、道行く人々が振り返る。中学生になった雛香は可愛い子供から美しい女に育とうとしていた。
 だから私は男の子のように髪を短く切り揃えて、制服ではなく学校指定のジャージで彼女と登下校した。半端に比較されて彼女を引き立たせるくらいなら初めから比較対照にならない格好でいようと心掛けた。
 雛香は存在そのものが私のコンプレックスだったのだ。
 しかし、やがて思いがけず憂鬱な時間は終わった。
 雛香が不登校になったのである。

 原因はクラスの女生徒からのいじめだった。
 雛香は中学に入ってすぐに人気のある三年生の男子生徒に告白され、けんもほろろに断ったのだ。
 しかも告白されたのは一人や二人ではなかった。その後もあらゆる男子の果敢なアタックは続き、それを断り続け、とにかく彼女は目立ちすぎて当たり前のように攻撃の対象になった。
 思春期の少女の陰湿ないじめにか弱い雛香が耐えられるわけがない。私はなるべく彼女を守ろうと心掛けた(つもりだ)が、クラスも違うので出来ることは限られている。
 雛香はあっさり学校に来なくなった。
 格好付けずに、はっきり言おう。私はその時、心から安堵した。



 まずその日最悪だったのは、街で偶然岡内博之に寄り添う島崎麻衣を見てしまったことだ。

「雛香、由美ちゃんが来てくれたわよ」
 雛香の部屋。
 ドア越しにおばさんが声を掛ける。
「入って」
 無愛想な声が聞こえた。
「じゃあ、由美ちゃん、宜しくね」
 おばさんは縋るような瞳で私を見て、そそくさとその場を離れた。雛香はおばさんが彼女の部屋に入ろうとすると激しく激昂し手当たり次第に物を投げるのだそうだ。
「じゃあ、入るよー」
 私はドアを開けた。部屋の中は暗い。
「すぐに閉めて、鍵掛けて」
 暗闇から雛香の声がする。私は言う通りに後ろ手でドアを閉め、ガチャリと鍵を掛けた。自分でしたことなのに、なんだか逃げ場がなくなる気がして怖い。
「……雛香、久し振り」
 久し振りに通された雛香の部屋は、以前とはまったく違っていた。
 明るい花柄だったカーテンは日光を遮断する黒い遮光カーテンになり、部屋を埋め尽くしていた観葉植物やぬいぐるみたちはなくなっている。
 それだけで、明るい花園のようだったそこはまるで廃墟のような印象に変わっていた。
「由美ちゃん、どうしてずっと来てくれなかったの」
 雛香は闇の中、ぴんと背筋を伸ばして膝を揃え、ベッドの上に腰掛けていた。
「ごめんね。……忙しくて」
「私のことなんか忘れてた?」
「……」
 レースのたくさん付いた白いネグリジェを身に纏った雛香は、ベッドの上から私を睨む。
 頑なに真っ直ぐ伸びた黒髪が、寝起きの無防備さで顔や肩に掛かっている。
「……ごめんね」
 手招きされるまま、私はベッドに近付いた。近付くにつれて、雛香の姿がだんだん明らかになってくる。
 外に出ていないからだろうか。ただでさえ白かった雛香の肌は、間近で見ると血管が透けるのではないかと思うほど蒼ざめていた。以前より痩せた肩は私が男だったら間違いなくこのまま押し倒しているだろうというくらいに儚気だ。
 やつれて尚、雛香は美しい。
 キリ、と嫉妬で心臓が痛むのを感じた。
 私は雛香の隣に腰掛けた。
 長い引篭もり生活で彼女がどんなに暗く色褪せているだろう、もっとはっきり言ってしまえばどんなに醜くなっているだろうと考えていた私は正直言ってがっかりした。
 私は、美しかった雛香が衰えているのを見たかった。上から見下して慰めようとしていたのだ。
「由美ちゃん、髪伸びたね」
 雛香は私の髪に手を伸ばした。
 私は高校に入学してから髪を伸ばし始めた。本当はずっと長い髪に憧れていたのだ。雛香のような。
「可愛いよ」
「……嘘。雛香の方が全然可愛い」
 私は力なく雛香の手を払いのけた。
 本心だ。雛香の艶やかな髪を見て、私は一気に自信をなくした。
 トリートメントを擦り込み色を染めてストレートパーマを掛けて、ようやく手に入れた私の長い髪。それに比べて、雛香の髪は何の手入れもせずにいるくせに内側から輝くほど美しかった。
「おばさん、心配してたよ」
 私は溜息と共にそう言った。駄目だ。雛香と自分の違いを上げていったらきりがない。彼女と自分はもともと違う生き物だと割り切るしかないのだ。
「関係ないよ。私なんか産んだからいけないんだ。頼んでもいないのに」
 思いの他憎しみの込められた言葉に、私はびっくりした。
「雛香?」
「ねぇ由美ちゃん」
 雛香が私の両腕を掴む。
「しあわせ?」
「は?」
 突然の問い掛け。
 私の脳裏に、博之の腕に腕を絡める島崎麻衣の笑顔が閃いた。
 ずきん、と心臓が痛くなって、乱暴な衝動が込み上げてくる。
 ―――友達と遊ぶから、今日は会えないと言われた。
 それで予定のあいた私は一人で買い物に出て、そこで、見てしまったのだ。
 腕を絡めて歩く、博之と島崎。後輩の島崎麻衣が前から博之を狙っていたのは知っていた。携帯に電話して問い詰めたら、ただの友達だよ、嫉妬するなんておかしいんじゃないか、と博之は笑った。
 ただの友達が、腕を組んであんなに楽しそうに笑うか?
 お前、俺を疑ってるから何でもそういう風に見えるんだよ。博之は嘲笑した。そしてその電話を、隣にいた島崎が代わる。
「別に、あたしたち何もやましいことなんかしてませんよぉ。被害妄想ですか? おっかしい。嫉妬深い女は嫌われるよ」
「ほらな、こいつもそう言ってるだろ」
 電話の向こう、くすくすくす、と忍び笑いが漏れてきた。

 ぐるぐると頭に響く笑い声。私はくちびるを噛んだ。雛香が喋る。
「私が生きてることに、何か意味があると思う? 私のことなんか本当に必要としてくれる人、どこにもいないんだよ。ただ寝て起きて、食べて排泄して、その繰り返し」
 嫉妬深い女は嫌われるよ、と笑う声。
 ―――彼に私は必要ではない?
「由美ちゃんも、私のことを忘れちゃう」
 雛香が私の瞳を覗き込んだ。
「……あ」
「ねぇ、由美ちゃん幸せ?」
 そんなわけがない。
 私はコンプレックスの塊で、全然美しくもなくて、嫉妬深くて。
 いろいろなものをただ羨んで、決して手には入らない。
「……何が不満なのよ、雛香」
 腹が立つ。目の前には、人形みたいに整った雛香の目鼻がある。私だってこんな風に生まれていたら、あんな女にバカにされることなんかなかった。
「雛香は綺麗で、可愛くて、私が持ってないものたくさん持ってるじゃない。たくさんのひとに必要とされてるよ。それで何が不満なの?」
「それは、私の皮であって、私じゃない」
「意味がわかんないよ」
 その、皮一枚の美しさをこそ私は求めているのだ。私だけじゃない、誰だってそうだ。
「私がこういう姿に生まれたのだって、私のせいじゃないよ。なのにそれだけで由美ちゃんは私のことが嫌いなんでしょう? 不満だよ」
 思いがけず図星をさされて、わたしはぎくりとした。
「……そんな、嫌いだなんて」
「嫌いなくせに。知ってたよ、小っちゃな頃から、ずっと」
 雛香は笑う。言葉とそぐわないその微笑の意味が解らなくて、私は寒気を感じた。
「ねぇ由美ちゃん、一緒に死なない?」
「……は?」
「生きてても意味ないんだもん。ねぇ、死のうよ」
 冗談を言っているような口調ではない。瞳が真剣で、どこを見ているのか解らないほど澄んでいる。
 私は怖くなって、しがみ付いてくる雛香の腕を振り解いた。
「……雛香」
「なあに」
「こんなところにいつまでも篭ってるから、そんなこと考えるんだよ」
「違うよ。ずっと考えてたよ。ねぇ」
 解いても解いても、縋り付いてくる雛香。私だけを見詰める綺麗な瞳。
「一緒に、死のうよ」
「ちょっと、やだ……」
「由美ちゃん」
「嫌だったら」
「由美」
 感情のない冷たい声。美しすぎる雛香の表情はうつろだ。
 ゾクリと背筋が冷えた。
 ―――怖い。
「嫌だ!」
 気付いたら思わず叫んでいた。
「……意気地なし」
 微かに笑うような声に我に返った。
 雛香が私の腕を放す。
 とにかく解放された私は取るものもとりあえず立ち上がった。
「帰る」
「そう?」
 何とか出した掠れた声に、雛香はあっさりと頷いた。
「気が変わったらいつでも来てね」

   からかわれた、のだろうか。
 私は雛香の家から戻るとまっすぐ自室へ入り、ベッドへと篭った。雛香の瞳と声が、いつまでも脳裏から消えない。
 からかわれたのだろうか。
 あの雛香が、死にたいだなんて言うはずがない。
 いつでも綺麗で、誰もが振り返る美貌の雛香。か弱いくせに女王様な雛香。
 そうだ、いつでも彼女は、私の前に君臨していた。
 私は彼女の言うことなら何でも叶えてあげた。か弱い彼女の代わりに何でもしてあげた。まるで召し使いのように。
「死にたいだなんて、甘えてる」
 あんなに恵まれているのに、死にたいなんて。彼女が死にたいなら私はどうなるのだ。
 ―――ねえ、一緒に死なない?
 まるで耳元で囁かれたような錯覚に陥って、私はぶんぶんと首を振った。
 ―――由美ちゃん、私が嫌いでしょう。
 まさか、バレていたなんて思わなかった。雛香は無神経で私の気持ちなど解らないのだとタカを括っていたのに。
 そう思うと、恥ずかしいような自己嫌悪が胸に沸いた。
 ―――行かなければ良かった。
 見透かすような雛香のひとみ。むかつく。気分が悪い。冗談じゃない。
 今は、私のほうがずっと強いはずだ。
 雛香は一生、誰も来ない部屋の中で引き篭もっていればいい。
 深く深呼吸して、私は布団を頭から被った。



「だからー、それが邪推ってやつだろ。卑しいんだよ、勝手に疑って」
 虫けらでも見るように博之は私を見下ろし、煙草の煙をふうと吐き出した。
「でも、……だって」
「だってじゃねぇよ。どこに浮気したって証拠があるんだ? 島崎だってそう言ってただろ」
 そんなの当然じゃないか。自分から言う馬鹿がどこにいる。という言葉を、私はぐっと飲み込んだ。
 これ以上、何を言っても勝てそうにない。目撃までして証拠がないと言い張られたらなす術がない。
「あ? どうなんだよ」
「……ごめんなさい」
 そして私は謝る。まるで疑ったことが罪であるかのように。
 いつもそうだ。博之はいつでも決定的な証拠は残さない。
 女の子と遊びに行ってもメールや電話をしても、いつでも疑う私が悪いことになってしまう。言い負かされて、いつの間にか私が謝っている。
 博之と付き合い始めて、半年と少し。その間に何度もこんなことがあった。
 私は博之が好きだ。いつでも一緒にいたいし私だけを見ていて欲しいのに。
 どうしてこうなってしまうのだろうか。
 ―――ねぇ、一緒に死なない?
「っ」
 耳元で聞こえた気がして、飛び起きた。
「……あ」
 ふと隣を見ると、博之はすっかり眠っている。あのあと仲直りにと抱き合ってそのまま寝てしまったようだ。
 窓の外が暗い。いつの間にか夜になっていた。
 絨毯の上に博之の携帯が落ちていて、拾い上げて見ると液晶に移された時刻は七時半だった。
「……」
 メールが届いている。
 ごくり、と私は唾を飲み込んだ。
 見てはいけない、と思いながらも指先は勝手にボタンを押す。
 ―――中身を読まなければ。誰からのメールか、確認するだけなら。
 私は自分に言い訳しながら液晶に視線を走らせた。

「雛香」
 私は雛香の部屋のドアを叩く。
 何度も何度も叩く。
「雛香」
 返事はない。
「雛香!」
「開いてるよ」
 ノブを回すと、カチャリと軽い音を立てて、ドアは簡単に開いた。
 暗い部屋の真中に、まるで人形のように雛香が立っている。
 ―――美しすぎて、いっそ不気味だ。
「どうしたの、由美ちゃん。気が変わった?」
 泣いている私を見て、雛香はくすりと笑った。
 綺麗な雛香。私よりも、島崎なんかよりも、ずっと、ずっと綺麗な雛香。
「雛香」
 私は思う。雛香と付き合っていれば、多分博之も浮気なんかしなかったはずだ。
 私でなければ。雛香なら。
「一緒に死んでくれる気になったの、由美ちゃん?」
「良いよ。死んでも良い」
 泣きじゃくりながら、私は言った。雛香が興味深そうにひとみを細める。
「誰が由美ちゃんを泣かせたの?」
 雛香の声が暗闇に響く。音もなく近付いてきた雛香の腕が私を抱きしめる。
「ねぇ、誰が由美ちゃんを泣かせたの?」
 博之の携帯、メールボックスは島崎からのあからさまなメールで一杯だった。返信内容なんか思い出すのも汚らわしい。
 博之と島崎は、二人で私を虚仮にして楽しんでいたのだ。
「私が雛香みたいに綺麗で可愛かったら、誰も私を泣かしたりしない。みんな愛してくれる。私が雛香だったら」
「だから、それは皮だけのことでしょう?」
 雛香は、ゆっくりとそう言った。
「私が死んでも、由美ちゃんは泣かないよ。顔だけ愛されたって意味ないんだよ」
 それでも、何も愛されないよりはましだと私は思う。
「……由美ちゃんにはわからないかも知れないね」
 少しだけ寂しそうに雛香が言った。その通りだ。私に雛香の気持ちなんか解らない。そんなに綺麗に生まれながら不満だらけの雛香の気持ちなんか、解るわけがない。
「雛香、一緒に死んであげるから、仕返ししてよ」
 私は絞り出すようにそう言った。
「私の変わりに、あのクソ女から博之取り返してよ。それで博之のことぼろぼろに振ってよ。私の変わりにあいつら泣かせて。私に出来なくても、雛香なら出来るからっ」
 ほとんど悲鳴に近い私の叫び。
 雛香は私の頭を撫でて呆れたように言った。
「まったく、由美ちゃんは俗物だねぇ」
 解ってる。私は俗物で卑しくて、だから愛されない。
 嫉妬深くて執念深くて、すぐに傷付く。
 コンプレックスの塊で、自分に全然自信がない。好きなこともやりたいこともない。人を羨んでばかりの、私はくだらない人間だ。だから愛されない。解ってるけど。
 だけど、裏切られたら悲しいのだ。
 傷付けられたら痛い。
 嘲笑されたくない。見下されたくない。痛い思いなんか、したくない。
「ね、外は痛いことばっかりでしょう? だから、私と一緒に死のうね」
 痛いことばかり。雛香にも?
 私は顔を上げた。雛香の綺麗な顔は、人形のように無表情だ。
 綺麗だからこそ、疎まれる雛香。だからずっと繭に篭るように、部屋に閉じこもって。
 これ以上傷付かないように?
 私は唐突に理解した。おかしなことだが、私には今まで解らなかった。
 雛香もただの人間で、人に否定されたら痛いのだということが。
 私も雛香を否定した。簡単に私の世界から追い出した。
 雛香が綺麗だから。私が傷付きたくないから。
「一緒に死んでくれるなら、仕返ししてあげる」
 あっさりと、雛香は言った。

 博之はいとも簡単に落ちた。
 こんなに簡単で良いのかと思うほどだった。
「はー、久々のシャバは疲れるわ」
 雛香は上着を脱ぎ捨てると、こきこきと首を鳴らして伸びをした。
「お帰り」
 私は雛香にお茶を入れる。お湯を貰いに台所へ出ると、お父さんが擦り寄ってきた。
「おい、雛香ちゃんが来てるのか」
「そうだよ」
「お父さんもちょっと顔出していいかなあ」
「やめてよ、恥ずかしいな」
 でれっと鼻の下を伸ばしたお父さんを、私は冷たく振り切る。まったく、相変わらず。男ってバカだ。
「いやぁ、でも良かったなあ。雛香ちゃん元気になって」
 いや、自殺(心中? )が決まっただけなんですけれどもね。
 とは当然言わずに、はいはい、そうだねーと答えて私は部屋へ戻った。
「まったく、煩いったら」
「どうしたの?」
「雛香に挨拶したいって、馬鹿親父が」
「あはは」
 雛香は笑いながらティーカップに手を伸ばした。
「由美ちゃんちのお父さん、昔から私のこと好きだもんねぇ」
「そう、昔からね」
 改めて話してみて解ったことだが、雛香は実際随分としたたかな女だった。
 誰が自分に好意を持っているか、または敵意を持っているか、コンプレックスを感じているか。彼女はそれを、驚くほど鋭く敏感に見抜いていた。「いつでも人の目を気にして生きてきたからよ」と雛香は言う。道理で私が彼女を嫌いなことも見抜いていたわけだ。
「いつもいつも気を使ってたわ。私みたいに可愛いと、敵意を持たれないように生きるのって大変なのよ」
 一見厭味に聞こえるが、彼女にとっては真実なのだろう。贅沢な話だが、美人にしか解らない苦労というものもあるに違いない。
「さて、じゃあ今日の報告ね」
 最近雛香はこうして、毎日私のところにその日の出来事を報告しに来る。
 私は博之と島崎の浮気には気付いていない振りを続け、あるとき、偶然を装って雛香を博之に紹介したのだ。
「これ、私の幼馴染み」
 そう言って雛香にあわせた時の、だらしない博之の顔。予想通りではあったのだが、あんまり素直で思い出すだに腹が立つ。
 その日はもう、一日中雛香の話題で持ちきりだった。どこに住んでるのか、何をしてるのか、何が好きなのか。
 私は、雛香は病弱でつい最近まで入院していたのだ、と博之に説明した。だから今も学校に通っていないし、男の人と付き合ったこともないと。
 その時の博之の喜びようと言ったら、もう少し隠せよなと言いたくなるほど露骨だった。完全に私を舐めている。
 それから私たちは何度か雛香を含めた三人で会い、計画的に少しだけ二人きりの時間を持たせた。博之は私の隙を見てすぐに雛香の携帯番号を聞き出したそうだ。面白いくらい計画通りだった。
 二人はあっというまにデートする仲へと進展した。
「今日はご飯食べて、夜景見て何か雰囲気出されて、キスしよーとしたところを泣いて逃げ帰る振りをしてきました、っと」
 ぱんっと最後に手を叩いて、雛香は笑った。
「満足?」
「うーん」
 私は曖昧に微笑む。
「お」
 雛香の携帯が鳴った。
「で、早速メールだわ。『さっきはごめん、君のことが好きすぎて急ぎすぎたよ』だってさ。バカじゃないの」
 雛香は冷たい瞳で携帯を見下ろす。
「由美ちゃん、何て返事入れる?」
 雛香は、そう言いながらくるりと私の方を振り向いた。
「んー。雛香のほうが得意でしょ、そういうのは」
「じゃ、『わたしこそごめんなさい。でもやっぱり由美ちゃんに悪くて、辛い』って入れとくね。彼女の幼馴染と秘密の恋っつーのが燃え上がるポイントよねえ」
 嬉々として(もちろん悪意を込めて)メールを打ち込む雛香を、私は複雑な思いで眺めた。
 満足?と問われても、はっきり言って、よく分からない。
 始めはこれで復讐が出来るとわくわくしていたのだが、計画通りに事が進むたび、段々怒りが薄れているような気がする。博之があまりにあっさりと雛香を口説きに入ったので呆れてしまったというのもある。
 こんなに簡単に私(も、島崎も)を裏切る男だったのか、と思ったらなんだか拍子抜けした。
 ―――くだらない。
 あんなに輝いて見えた、特別に見えた博之はただのくだらない男だった。
 それでも、雛香は私のために「外」に出てくれている。薄く化粧をして着飾った雛香は、悔しいけれどうっとりするくらい綺麗だった。こうしていると全然元気に見える。
「ねぇ雛香」
「うん?」
「あんた、本当に死ぬ気なの?」
 私の言葉に、薄く微笑んで雛香は振り返る。
「どうしたの。嫌になった?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……本当に死にたいのかなーと思って。元気そうじゃん、あんた」
 もうこのまま、何もなかったことにできないものかと私は思う。
 博之のことなんか忘れて、雛香はこれから学校にでも通って。私は日常に戻る。それで良いじゃないか?
「由美ちゃん、でも私たちは死ぬのよ」
 ふいに、ぞくりとするような声で雛香が言った。
「……雛香」
「後悔しても無駄よ。もう決めたんだから。約束、破ったら駄目よ」
 射竦めるように私を見て。
 私は、凍りついたように動けなくなった。

 正直言って、後悔していた。
 だって、まさか本気だとは思わなかったのだ。本気で雛香が私のために一肌脱いでくれるとも思っていなかったし、ましてやそれが心中するためだなんて。いや、たとえ本気だとしてもすぐに飽きるだろうと思っていた。
 でもよく考えたら、雛香は何年も狭い部屋に引き篭もる執念の持ち主だったのだ。
「うーん、どうしたもんかなあ」
 私はベッドに寝そべり、天井を見上げて溜息をついた。
 今日も、雛香は博之に会っている。雛香は先日、焦らして焦らして、ようやく博之に唇を許したのだそうだ。
 そんなことを聞いても、もう嫉妬すらしない私がいた。それよりも、私と死ぬためだけにそこまで出来る雛香が今は恐かった。
 だいたい、どうして私なんかと一緒に死にたいんだ?意味が解らない。私は、引き篭もる雛香を見捨てた女だ。
 だからこそ彼女は私に復讐しているのだろうか。それともやっぱりからかわれているのだろうか。いや、からかわれているだけなら良いなぁという私の希望なのかもしれないけれど。
 そのとき、私の携帯電話が鳴った。雛香だ。
「もしもし」
「もしもし、由美ちゃん?」
 雛香の声が、いつもと少しだけ違った。
「私、今バカ男の部屋にいるよ」
「えっ」
 どきり、と心臓が跳ねた。
 今日は土曜日。土曜は、毎週博之の両親が揃って出掛ける日だ。
「今、彼トイレに行ってる」
「雛香、危ないよ、こんな日に」
「良いの。今日は私あいつと寝るから」
 きっぱりと言い切った雛香の声に、私は耳を疑った。
「ちょっと、雛香、待って。そこまでしなくても」
「何言ってるの」
「だって、雛香、博之のこと好きなの?」
「はあ? バカじゃないの? 好きなわけないでしょ」
「じゃあ、なんで」
「だから、由美ちゃんの復讐のためでしょう? 大丈夫、私処女じゃないから。あ、帰ってきた、切るよ」
「ちょっと……ちょっと、待った」
「じゃあ」
「雛香、しなくていい! そんなことまでしなくていいからっ」
 私の言葉を最後まで聞かないで、雛香は電話を切った。
「……あ」
 慌てて掛け直すが繋がらない。電源を切ったらしい。
 私は呆然とした。
「嘘……」
 どうしよう。雛香は本気だ。
 馬鹿げている、やめさせなくては。いや、やはりこんなこと始めからするべきではなかったのだ。
 私は急いで博之の携帯に電話を掛けた。博之はまだのうのうと私とも付き合っている。どうしたらここまでしてバレてないと思えるのか不思議だったが、彼の頭は相当おめでたくできているらしかった。
 ―――駄目だ。出ない……。
 そう思ったときだった。
「もしもし」
 低い、博之の声が耳に届いた。
「あっ、博之!?」
「なんだよ、大声出して」
「そこに、そこに雛香がいるでしょう!?」
「はあ? ……何言ってんだ。いねぇよ」
 当然だが、博之はしらじらしくもそう答えた。
「嘘吐かないで!」
「いねぇよ! 大体なんで雛香ちゃんがウチに来るんだよ。お前、また俺のこと疑ってんのか」
「疑ってんのかじゃないわよ!」
 よくもそんなことを! ぷっつりと、私はキレた。
「知ってるのよ。雛香のこと口説いてるくせにっ! 島崎と二人して私のこと笑ってたのも知ってるのよ。バカにするのもいいかげんにして!」
 駄目だ。こんなバカ男と寝たりしちゃ、絶対駄目だ。私なんかのために雛香がそこまでする必要はない。
「はぁ? お前、何バカなこと……」
「バカはお前だっ! 雛香はあんたなんかには勿体無いんだよ、いい? 雛香に手ぇ出したら許さない、ただじゃおかないからね!」
 雛香は、そんな女じゃないのだ。誰よりも綺麗で、繊細で、純粋な雛香。私が守らなくては生きてゆけない、傲慢で我侭で、哀しい雛香。
「お前なあ、いい加減にしろよ! 俺は嫉妬深い女は嫌いだって言ってるだろ」
「嫉妬? バカ言ってんじゃないわよ。誰が嫉妬なんかするか、あんたとなんか今すぐに別れるわよ!」
「なっ……」
 電話の向こうで絶句する博之。
「はい、よくできました」
 ぱちぱち、という拍手と共に、雛香の声が、なぜか背後で聞こえた。
「えっ」
 驚いて振り返ると、雛香が部屋の入り口に立っていた。
「……ひ、雛香?」
 雛香は私の手から携帯を取り上げると、まだ騒いでいる博之の声を無視して電源を切った。
「ふう、煩い男だね」
「ひ、雛香、あんたどうして」
 私はぱくぱくと、声にならない声を上げる。
「うん?」
「な、何で……嘘?」
「やだぁ、私があんなバカ男とセックスするなんて本気で思ったの? 由美ちゃんたら」
 ころころころ、と雛香は笑った。
 ―――嘘。嘘だったの?
 私は脱力して、その場にへたりこんだ。雛香はのほほんとした顔でベッドに腰掛けている。
「見下してた女に振られるのこそ、最大の屈辱だと思うのよねぇ。今頃すんごいショックで打ちひしがれてるよ。由美ちゃんのストーカーになったりして」
 悪巧みをする顔で、雛香が笑った。

 一息つくとようやく事態が飲み込めてきて、私は大きな溜息を吐いた。つまり、雛香は最初からあいつの部屋になんか行っていなかったのだ。正しくは、しつこく誘われたが断って帰ってきたのらしい。「あなたって本当に気持ちが悪い、もう会いたくないわ」と手酷く振るのも忘れなかったという。
「雛香、演技上手すぎ……」
 まったく、人にはいろんな才能があるものだ。雛香は間違いなく詐欺師になれる。
 いや、これだけ美人なら女優か。
「ともかく、これで由美ちゃんの復讐は完了したってわけだね」
 雛香がにやりと笑ってそう言ったので、わたしはぎくりとした。
 約束。復讐してくれる代わりに、私が雛香と一緒に死ぬ。
 でもそんなの、まさか。まさか、本気じゃないよね?
 そう笑い飛ばそうとしたけれど真剣な雛香の瞳と目が合ってしまって、私は言葉を飲み込んだ。
「……約束だよ、由美ちゃん」
 私を見竦めて、すうと手を伸ばす。雛香に腕を掴まれて、私の体がびくりと震えた。
「ひ……雛香」
「由美ちゃん。一緒に」
 動けない私に、雛香の綺麗な顔が近付く。私は思わずぎゅうっと目を閉じた。
「雛香っ、ご、ごめんなさい!」
 なんとか叫んだ私の頬に、ちゅうっと雛香の唇が吸い付いた。
「えっ?」
 驚いてぱちくりと目を開くと、至近距離で雛香が微笑んでいる。
 子供の頃と同じ、悪戯をする顔で。
「ほんと、由美ちゃんって単純。すごく可愛いわ」
「ひ、雛香?」
「純粋すぎるっていうか」
「ま、また嘘なの?」
 私は脱力した。またやられた。
 しかし雛香はすぐに真剣な目をして、
「嘘じゃないよ」
 と、言った。
「嘘じゃないよ。本当に死のうと思ってたの。だけど、さっき由美ちゃんが、私を守ってくれたから」
「え」
「私に手を出したら許さないって。だから、まあ、延期にしてあげる」
 あ、あれは、つい勢いで言っただけで。
「私はね、由美ちゃんが会いに来てくれなかった間、すごく辛かった。本当は由美ちゃんに嫌われてるって知ってたけど、それでも私には由美ちゃんしかいなかったから」
 雛香はまっすぐに私の瞳を見て、美しい顔でにっこりと笑った。
「由美ちゃん。私には、由美ちゃんだけがいればいいの」
「……」
 唐突に、私は自分の中の恍惚に気付いた。怖いくらいにきれいな雛香が、私だけが必要だと言う。
 ―――私だけが。
 それは、とろけてしまいそうなほどの優越感だった。
 そして私は、気付いたのだ。
 自分がなぜ幼い頃、雛香と共に過ごしていたのか。イヤだイヤだと思いながら離れることの出来なかった、その本当の理由に。



「由美、ちょっとお父さんも部屋に遊びに行って良いかな……」
「駄目だよ」
 私は揉み手で擦り寄ってくるお父さんを冷たく一蹴した。
 部屋のドアを開けると、雛香が我が物顔でソファに座っている。
「お帰り、由美ちゃん」
「ただいま。アンタ、学校は?」
 私はベッドの上に鞄を投げ出しながら聞いた。
 まったく、どうしてうちの家族は私の留守に雛香を勝手に部屋に上げてしまうのか。
「うん、これから行く」
 彼女はこの春から、定時制の高校に通っている。
「ねぇねぇ、由美ちゃん新しい彼氏できたんだって?」
「……なんで知ってんのよ」
「さっきおじさんが教えてくれた」
 ―――くそジジィ。
 あとで締めねば。
 私は苦虫を噛み締めたような気分でそう思った。
「会わせてよ〜」
「駄目。アンタにだけは絶対会わせない」
 どうせまた雛香に目移りするに決まっている。
「だから、それでもなびかない男だけが本物なんじゃない〜。雛香がテストしてあげるんだよ」
「そんな男いるわけないじゃない、嫌なヤツ!」
 そう言うと、なぜか雛香はにやりと笑った。
「それが言えるようになったなんて、成長したね、由美ちゃん」
「……生意気」
 と、そのとき、ガチャリと扉が開いて、だらりと鼻の下を伸ばしたお父さんが顔を出した。
「お茶が入ったよ〜」
「あ、おじさん。ありがとうございます」
 雛香は途端に、猫かぶりな微笑みを浮かべた。
 怖いくらい、綺麗に笑う。

 ―――相変わらず、私は雛香が苦手だ。
 多分、好きになんか一生なれないとは、思う。
 でも。
 それでも良いかと、最近は思う私だった。
「由美ちゃん、心中は延期だからね、忘れないでよ」
「はいはい、おばあちゃんになったら、二人で華厳の滝にでも身を投げようね」




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