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良い子の食卓



 いつもの緊張感。

 テレビのニュースだけが響くしんとした食卓で、七緒は箸を取った。
 窓から刺す温かな日差し、微かな小鳥の鳴き声。七緒の目の前にはあじの干物とご飯と味噌汁が並んでいる。目の前にはパパが座り、おかあさんがぱたぱたと忙しくキッチンを行き来する。さわやかな、朝の食卓。
 でも、また。
 そこにいつものように、ぴりぴりとした緊張感が漂っているのを肌で感じる。七緒はそれを壊すように大きく明るい声を上げた。
「おかあさん、今日のお味噌汁美味しい!」
「あ、あら、そう?七緒ちゃんがいつもそう言ってくれるから、おかあさん張り合いがあるわぁ」
 美津子おかあさんはほっとしたように笑う。それで七緒も少しだけほっとする。
「おかあさんのご飯がいつも美味しいからだよ。私、おかあさんの料理大好き」
 そこでおかあさんが本当に嬉しそうに笑ったので、七緒は嬉しくなった。
 本当は七緒は今までずっと朝食はパンだった。だから朝からご飯を食べるのは少しだけきついのだけど、そんなことは当然我慢する。
 嫌いではないから、好物と同じようなもの。
「…桐子は」
 せっかく和んだ空気を、パパがその一言で再びぴしりと凍らせた。
「…ごめんなさい」
 自分の所為ではないのに、おかあさんが謝る。当然パパの所為でもない。もちろん七緒の所為でもないのだけれど、沈黙が続くごとに七緒はなんだか自分が何か悪いことをしたような気分になってきた。
 気まずい緊張感の元凶は、今日もまだ帰ってこない。
 再びおどけてみせるのもわざとらしいので、仕方なく七緒はただもくもくとご飯を食べた。
 気まずい中の食事では味も感じない。早々に平らげて自分できちんと食器を下げ、じゃあおかあさんお願いします、と挨拶をして台所から出ようとした時、ガチャリと玄関の鍵を開ける音がした。
「…」
 途端に、全員の顔にさっと緊張が走る。
 桐子が帰ってきた。
 そわそわするおかあさん、苛立たしげに新聞を広げるパパ。七緒はなんとなくその場に立ち尽くした。
 桐子は、ただいまも言わずちらりともこちらを見ないでに台所の横の廊下を擦り抜けて行った。
「…おい」
 パパが呼び止める。桐子は無視する。
 おかあさんが慌ててその背中に声を掛けた。
「ちょっと、桐子…おとうさんに返事くらい」
「父さんじゃないよ、こんなやつ」
 ―――うわ、爆撃。
 攻撃の破片がリアルに胸に刺さって、七緒はあちゃー、と目を閉じた。桐子の一言はいつも一撃で人を傷付ける。おそろしく的確に、一番痛い場所を突く。
 効くんだ、あれ。
 短い付き合いだが、七緒はそのことをよぅく知っている。なぜなら七緒自身も散々撃沈させられているから。
 案の定、パパはそれきり黙りこんでしまった。
「バッカみたい」
 桐子はそう勝利の捨て台詞を吐き捨てて、平然と自室のある二階へと上がって行った。どうして良いか解らず、おかあさんがおろおろとその後姿を見送る。
 七緒はうろたえない。もう慣れてしまった。何事もなかったかのように、敢えて明るく「じゃあ行ってきます」と声を上げて足早にその場を立ち去った。玄関を開けて深呼吸する。
 ああ、今日も良い天気だ。
 これは、最近毎日のように繰り返される小さな修羅場だった。七緒たちと一緒に暮らすようになってから、桐子はほぼ毎晩無断外泊をする。本来なら高校二年生のはずの彼女は学校にも行かず、家には着替えに帰ってくるだけで、毎日バイトをして過ごしているのだった。
「どーして、お姉ちゃんはああなのかなあ」
 思わずそう呟いて、七緒は長い溜息を吐く。
 桐子の行動は、どれもこれも七緒には理解し難いことばかりだった。
 せっかく上手くやろうとしている家族を掻き回す。平気で人を傷付ける。
「せめて私はおかあさんに気を使わせないようにしなくちゃ」
 美津子おかあさんはとても良い人だが少し優しすぎる。おまけに桐子がああなので七緒やパパへの気の使いようは見ているこっちが心苦しいくらいで、せめて自分だけはおかあさんの負担にならないようにしよう、と七緒は強く思うのだった。
 なぜ、桐子はうまくできないのだろう。
 簡単なことなのに、こんなこと。自分が少しだけ我慢すればいいことだ。
 七緒には当たり前のことだった。
 桐子がなぜ家族を掻き回そうとするのか、七緒には理解できない。仲良くすれば良いじゃないか、せっかく一緒に住んでいるんだから。
 せっかく、家族になったんだから。

 孝パパと美津子おかあさんが再婚をしたのは、半年ほど前のことだ。
 パパは、七緒の「ほんとうのママ」と約二年前、七緒が小学校を卒業した年に離婚した。詳しい理由は七緒には解らない。「大人の事情」には立ち入れないのが子供だ。子供から見ても決して仲の良い両親ではなかったから、まあ仕方がないのだろうと七緒は理解した。
 そしてそのあと、多分経済力とか生活力とかそういう理由から七緒は父親に引き取られることになった。
 そのことについても、七緒は詳しい事情を知らない。それは七緒が決めることではなかった。七緒はパパと暮らすことになったから、と母親に告げられて、だから七緒は聞き分けよく従った。異存のあるわけがなかった。それは、七緒が決めることではないのだ。
 そして、七緒はそれきり母には会ってない。特に会うなと言われているわけではなかったが、父が心の中で会って欲しくないと思っていることを七緒は敏感に感じていた。母から会いたいと言われたこともない。何度か電話で話して、実家に帰っているのだと聞いた。
 母の実家。つまり七緒の祖父母の家、鹿児島。気軽に会えるような距離でもない。だから、仕方がない。
 七緒は聞き分けの良いこどもだった。自分がわがままを言えば大好きな人たちが困ることを知っていた。人を傷つけたり、困らせたりするのはとても恐い。
 そして離婚した一年半後、孝は美津子と再婚した。
 美津子の夫、桐子の父は、桐子がまだ小さい時に事故で亡くなったのだそうだ。
 美津子は家庭的で優しい女性だった。料理がうまくて、きれい好き。七緒にもとても良くしてくれて、だからすぐに打ち解けた。七緒には、美津子が七緒に好かれたいと思っているのがよく分かった。それは嬉しいことだった。だから、自分から進んで美津子のことを「おかあさん」と呼んだ。美津子が安心するように。
 そうして、七緒たちは家族になった。
 新しい家族、三人の生活にはまるで問題がない。
 ただ一人、桐子だけが順風満帆な毎日を乱し続ける。

 学校から帰り、二階へ上がると桐子が自室から出てくるところだった。
「…あ」
「何よ」
 じろりと睨まれる。
 桐子は胸の開いたワンピースを着て、きっちりと化粧をしていた。午後六時。多分これからバイトなのだろう。
 パパはいつも、高校生が化粧をするなんてとんでもない、と眉を顰める。派手な服もきらい。だから、多分これはいけないことなのだと思う。
 でも実は七緒は、こんなときの桐子を綺麗だといつも思う。
「また出掛けるの?」
 だから、思わず話し掛けた。
「関係ないでしょ、良い子ちゃん」
 きれいにマニュキュアを塗ったゆびさきで彼女の鼻先を軽く弾き、桐子は制服姿の七緒の横を擦り抜けて行った。ふわりと漂うベビードールの甘い香り。既視感を感じて七緒は目を閉じる。七緒の母親と同じ香水。
 桐子は少し母に似ている。美津子おかあさんではなく、七緒のママに。パパの嫌いな、華やかで行動力があってはっきりものを言う女性。冷たくされても嫌いになれないのはそのせいかもしれない。
「学校には行きなよ」
 もっと会話を、と思ったらつい口がそう滑った。いけない。きっとまたお節介だと叱られる。
 いつもそうなのだ。余計なことを言って桐子を怒らせてしまう。ほかの人になら相手の思う通りに行動できるのに、桐子にだけは駄目だった。いつも彼女の機嫌を損ねるようなことばかり言ってしまう。
 もっとも、七緒が何を言っても桐子は気に食わないに違いないのだが。
 しかしその日に限って、桐子は七緒の言葉に振り向いた。
「どーして?」
 煩いという冷たい罵声か無視を覚悟していた七緒はどきりとした。
「どうしてって…」
 困った。
 どうしてかなんて、考えたことはない。考えるまでもなく学校は行くべきところだ。
 七緒はそう思ったけれど、今言うべき言葉はそうではないと感じた。多分、桐子は違う答えを聞きたがっている。
「…おかあさんが悲しむなら」
 考えた末行き着いた七緒の言葉に、桐子の瞳が哀れむように細められた。
「だから、あんたは不幸なのよ、七緒」
 聞き返す間もなく。
 興味を無くしたとばかりに、桐子はふいと踵を返して階段を下りていった。
 ―――不幸?
「何言ってるの、お姉ちゃん」
 意味が解らない。私は不幸なんかじゃない。
 七緒は桐子が消えた空間を見詰めた。試されて、そして自分は失敗したのだと感じた。
 桐子の考えていることが、解らない。
「わたし、不幸なんかじゃないよ」
 誰も居ない空間に桐子の影を求めて、七緒はそう呟いた。当然返事はない。

 初めて会った時からそうだった。
 父の再婚相手には七緒と三つ違いの娘がいると聞かされたとき、お姉ちゃんができるのだと素直に七緒は喜んだ。「新しいおかあさん」が出来ることにはさすがに多少ためらいがあった七緒も、姉なら大歓迎だと思った。
 どんな人だろう、可愛いだろうか。年が近いから、一緒に買い物をしたり、遊びに行ったり出来るだろうか…七緒は想像して、胸を膨らませた。美津子さんは優しい人だから、お姉ちゃんも優しいに違いない、と思った。
 いざ再婚して引越しするまで一度も姿を現さないのを少し奇妙に感じながらも、その朝まで七緒は期待を捨てなかった。
 ところが。
 引越しの朝ようやく七緒たちの前に現れた桐子は、初対面の挨拶すらしないで七緒と孝に向かって一言宣言したのだ。
「あたし、あんたたちを家族とは思わないから」と。
「あたしも勝手にするから、あんたたちもどうぞご勝手に」
 七緒は呆気に取られた。
 その日はそれきり桐子との会話はなく、彼女は割り当てられた自室に自分の荷物を詰め込むとさっさとバイトに出掛けてしまった。
 信じられなかった。
 挨拶の言葉や自己紹介をいろいろ考えていた七緒は戸惑い、正直言ってがっかりした。人と仲良くするのが特技とも言える七緒だったが、これでは取り付くしまもない。他人に頭から拒否されるなど、七緒には初めての経験だった。
 それからしばらくの間、七緒は桐子に好かれようといろいろ試みてみたのだが、その度に見事に撃沈された。そのうち、何よりも桐子自身がそれを求めていないと解ったので、無理に歩み寄るのはやめてしまった。
 それでも、七緒はどうしても桐子を嫌いにはなれないでいる。
 それがどうしてか、七緒自身にもよくはわからなかったけれど。



 放課後、七緒は跳ねるような足取りで帰り路を急いでいた。
 今日は二学期の期末テストの順位発表の日だった。
 今回、七緒の成績は学年で十番。中間テストの時よりもよりも二十番も上がっている。頑張った甲斐があった。
 これで、ママに電話ができる。
 随分久し振りの電話だ。パパが再婚してから、ママと会話する機会はめっきり減っていた。
 特に制限されているわけではなかったが、美津子おかあさんのいる家で母親に電話するのはなんとなく躊躇われた。なんとなく、ほんとうになんとなく…新しい家では、「七緒のママ」の存在は不自然だった。
 だから何か特別な用事やきっかけがなければ掛けないようにしていたのだが、今日は別だ。ママは七緒の教育にも熱心だったし、成績発表がある日は電話するきまりになっていた。
「ただいまぁ」
 玄関から声を掛けると台所にいた美津子おかあさんが顔を出した。
「おかえりなさい」
 優しい笑顔になぜか少しだけ後ろめたい気持ちになりながら、七緒はパパの寝室から電話の子機を持ち出した。まだ夕方、パパも桐子も帰ってはこないはずだ。
 自分の部屋に戻ると、七緒はどきどきしながらママの携帯電話のダイアルを押した。番号は、確かめなくても覚えている。絶対に忘れない。
 コール音が三回鳴った。
「はい、もしもし」
 受話器の向こうから懐かしい声がした。
「もしもし、ママ?」
「七緒?」
 自分の声を聞いて、ママの声が明るく弾む。七緒はそれが物凄く嬉しいと思う。
「七緒、久し振り!元気でいる?風邪ひいたりしてない?」
「大丈夫だよー」
 心配してくれる声がくすぐったい。
「おかあさん、あのね、今日は中間テストの順位発表だったの!二十番も上がったんだよ」
「ほんとう?凄いじゃない!頑張ったねぇ」
「頑張ったよ!」
 良かった、喜んでくれた。
 七緒はそれから、自分の近況を報告したりした(当然、桐子のことは抜かして)。相変わらず美津子おかあさんは優しいとか、パパは少し太ったとか。
 ママと話すのは凄く嬉しいのだが、こんなとき、七緒はすこしだけ気を使う。もしかしたらパパや新しい家族の話はしないほうが良いのではないかと思うことがあるのだ。だけどそれが七緒自身の日常でもある。
 ほんとうは、日常を、ママと過ごしたい。
 でもそれはわがままだ、と七緒は思った。
 ―――わがままを言ったらだめだ。みんなが困るから。
 七緒は慎重に言葉を選んで話す。屈託なく聞こえるように、素直に、明るく聞こえるように。ママを心配させないよう。
 しばらく話をして、ふと、ママがまじめな声で言った。
「七緒、新しいおかあさんとは上手くいってるみたいだね」
「うん。大丈夫だよ」
 間髪入れず、元気良くそう答える。
「そう…」
 ママはほっと安堵の息を吐いた。
「良かった。あのね、七緒…」
 それから、少しの間、迷うような沈黙。
「ママ?」
「七緒…ママね、ママもね、再婚しようと思ってるんだけど」
 ずしり、と何か重いものに体を押さえ付けられたように感じた。
「あのね、ママ、お腹に赤ちゃんがいるの。その子のパパと結婚しようと思ってる」

 それは多分一瞬の沈黙だった。けれど七緒にはとても長い時間に感じられた。何か、何か言わなくては。胸がどきどきする。受話器を持つ手にじっとりと汗が噴き出すのがわかった。
「七緒?」
 何か言わなくては。何か言わなくては、ママが困る。
 七緒には、どうして自分が混乱しているのかわからなかった。こんなとき、言うべき言葉は決まっている。そうだ。
「おめでとう!」
 気付いたら、七緒のくちびるは明るく言葉を紡いでいた。
「七緒」
「ママが幸せなら私も嬉しいよ!私なら平気だよ。凄く幸せだもん。だから、ママも幸せになって」
 頭と切り離された喉はどんどんと言葉を作り出す。それはとても晴れやかで明るい声だった。そう。大丈夫。それで良い―――。
 足枷になっちゃいけない。
「七緒、ありがとう」
「何言ってるの?当たり前じゃない。頑張ってね、ママ」
 笑わなくちゃいけない。後悔させちゃいけない。ママが幸せなら七緒も幸せだ。美津子おかあさんも、パパも幸せだ。
 だから。
 七緒は笑った。
 とてもうまく笑えた。

「バッカじゃないの、あんた」
 電話を切ると、後ろから呆れた声がした。
「おっ、お姉ちゃん」
 振り返ると部屋の入り口の柱にもたれた桐子が七緒を見下ろしていた。
「き、聞いてたの?」
「聞かれたくないならドアに鍵でも掛けな」
「そういうわけじゃないけど…」
 七緒は口篭もる。つかつか、と歩み寄ってきた桐子は七緒から電話を取り上げた。
「馬鹿な良い子ちゃん。そうやっていつまでも人のご機嫌だけ取ってなさい」
 桐子は、明らかに気分が悪そうにそう吐きすてた。
「き、機嫌なんか取ってないもん」
 思わず反論してしまってから、しまった、と思う。またやってしまった。反論なんかするつもりではないのに、どうして桐子の前だと冷静でいられないのだろう。
 案の定、桐子はきりりと眉を上げて言い返してきた。
「取ってるじゃない。何でもかんでも人の言う通り、あんたには意思ってもんがないの?ほんと、あんた見てると苛々する」
 刺すような桐子の言葉に、七緒は黙るしかなかった。いつもそうだ。桐子の言葉は平気で人を傷付ける。いつでもその人の一番痛い場所を突く。
「…」
 ―――一番痛い場所。
 つまり、図星ということ。
「だって…仕方ないじゃない」
 七緒の言葉に、桐子が唇を上げる。
「仕方ない?何が」
 七緒は、きっと桐子を見上げた。何だかひどく自棄糞な気分だった。どうにでもなれ、と思う。胸から喉まで、一杯に石でも詰まっているように感じる。赤ちゃんがいるの、というママの優しい声が耳の奥にこびり付く。
「仕方ないじゃない!私には何にもできないもん。私がわがまま言ったら皆が困るもん!私だけが我慢すれば良いことなんだから、」
「だから我慢するの?バカじゃないの。あんたが一人で我慢してることなんて、誰も気にしてないわよ」
 桐子は射るように言葉を吐く。
「そうやって、誰かが気付いて誉めてくれるの待ってるんだ?七緒ちゃんは良い子だねぇって、みんなに頭撫でて貰いたいんだ。あー気持ち悪い。やだやだ、自意識過剰」
「!」
 パン、と高い音がした。気付いたら、七緒は思わず桐子の頬を叩いていた。
「あっ…」
 さあ、と血の気が下がるのを感じる。七緒は慌てて桐子に手を差し伸べた。
「ご、ごめんなさいっ…」
「だからそこで、なんで謝るかなぁ!」
 桐子は七緒の手を跳ね除ける。七緒はびっくりして目を見開いた。
「嫌なこと言われたでしょう?嫌なことされたら嫌だって伝えなきゃ駄目なんだよ!一人で我慢したって誰もあんたの気持ちまで考えないんだよ。あんたは母親に会いたくないわけ?」
「え…」
 自分で七緒を傷付けておいて、怒れと言う。
 七緒は桐子の考えが読めなくて、目を瞬かせた。
 ―――会いたい?ママに?
 そんなの、決まってる。
「勝手に離れ離れにされて寂しいんでしょう?本当は嫌なんでしょ?それともあんたは母親のことが嫌い?会いたくないの?」
「会いたいよ!」
 思わず、大声が出た。
「…会いたいよ。決まってるじゃない!」
 ああ、駄目だ、と思った。
 一度言葉にしてしまったら誤魔化せなくなる。知らない振りができなくなる。
 七緒は俯いた。涙を堪えるので精一杯だった。駄目だ、泣いてもどうにもならない。
「会いたいよ。会いたいけど、駄目なんだよ!大好きだけど、駄目なんだよ!」
 ―――だって、私とママは、もう家族じゃないから。
 考えないようにしていた答えに行き着いて、七緒は愕然とした。
 そう。もう、ママは私の家族じゃない。
 どんなに嫌でも、決まってしまったことだ。七緒が何か言っても、くつがえせない。ママにもパパにも、それぞれの人生があるのだ。それは七緒だけのものではない。
「あんたの不幸は、頭が良すぎるところだね」
 気が付くと、座り込んだ七緒の頭を桐子が優しく撫でていた。
「よし。じゃあ、会いに行こう」
 あっさりと言った桐子の言葉に、七緒は思わず顔を上げた。
「え?」
「会いに行こう」
「だ…誰に」
「あんたが、あんたのママにだよ。他に何があんの」
「え」
 七緒は思わず問い返した。そんなこと、考えたことがなかった。
 だって、
「だって…無理だよ」
「何で?」
「お、お金だってないし、それに、パパとおかあさんが」
 戸惑う。多分、二人は困るだろう。出来れば会って欲しくないと思っているのは見ていれば解る。
「だから、それをやめろって言ってんだよ!他人の気持ちまでいちいち深読みするな。あんたは、あんたのしたいことをしなさい」
 七緒の目を見てきっぱりと、桐子は言った。
「ウチはね、もう居ない。だからどうしようもないけど、あんたのママは会いに行けばいるでしょう?言葉は生きてるうちにしか伝わらないよ」
 言い終わると、桐子はつんと顎を上げて横を向いた。
「…お姉ちゃん」
「お金ならあるわよ」
「お姉ちゃん」
「貸しだからね、言っておくけど」
「お姉ちゃん!」
「何よ、煩いわね!」
 そこで七緒はようやく気付いた。
 桐子は、自分が姉と呼ばれるのを拒否したことはなかった。
「…ありがとう、お姉ちゃん」
「…ふん」
 七緒の頭を、再び桐子が撫でた。
 それはママがしてくれたように、暖かかった。



 飛行機は雲の上を飛んでいた。
 見下ろすと下には白い絨毯が柔らかそうに広がっている。ママが持たせてくれたお弁当を食べながら、七緒は窓の外に見惚れた。
 鹿児島から東京までは、飛行機で三時間。
 まだ長い道程になる。
 あのあと、七緒は一人で鹿児島へ旅立った。パパとおかあさんは付いてくると言ったけれど、七緒は一人で行きたいと言い張った。一人でなければ言えない気がしたし、一人でもできると証明したかったから。考えてみれば、七緒は何かがしたいと自分で主張したのは初めてだった。
 何年振りかで会うおじいちゃんとおばあちゃんは、七緒を見ると凄く喜んだ。そして。
 久し振りに見たママは、以前よりずっと綺麗になっていた。
「ママ、今、幸せなんだね」
「そうね、幸せよ」
 見れば解る。パパと暮らしていたころのママは、ひどく疲れた顔をしていた。
 ママは照れたようにはにかんで、それから「新しい旦那さん」の写真を見せてくれた。
 ぽっちゃりとした、優しそうな人だった。パパみたいに、格好良くはないけれど。
「優しそうなひとだね」
 ふふっとママが笑う。
「私ね、本当は、ママとパパが離婚するの、嫌だったんだ」
 自然に言葉が出た。ママは少しだけ驚いた顔をしたけれど、構わずに七緒は続けた。
「ママと離れて、家族でなくなるのなんか本当は嫌だったんだよ。私はママが好きで、いつまでも私のママでいて欲しい」
 言いながら涙が溢れた。
 本当は、ずっと不安だったのだ。でも、その気持ちは間違いだと思ってた。
「七緒」
 優しい手のひらが、七緒の髪を撫でる。
「七緒は頭が良い子で、聞き分けが良すぎるところがあるからママは心配だったわ。もっと駄々を捏ねても良いのにってずっと思ってた」
 抱き寄せられて、額と額が触れた。
「馬鹿ね。離れてたって、家族でなくなることなんかないよ。ママはいつまでも七緒のママだよ。そんなこと、心配してたなんて知らなかった」
「…だって」
 ふにゃりと、七緒の顔が歪む。だって、伝えちゃいけないんだと思ってた。ママは困ると思ってた。
 けれどママの手は、ずっと七緒の髪を撫でてくれている。
「そうだね。七緒はずっと我慢してたんだね。気付いてあげなくて、ごめんね」

 改めて今考えれば、みんなを困らせてしまっただけかもしれないと思う。
 でも、後悔はなかった。伝えようとしなければ伝わらない。一人で我慢したって、何も起こらない。
 ―――少なくともこれで、いつでもママに会いに行けるようになった。
 それだけでも七緒には大きな変化だった。
 高校に入ったらバイトをしよう。
 ママに会いに行く資金もできるし、桐子に今回のお金も返せる。パパはアルバイトに反対するだろうが、ちゃんと説得する。
 どうしてもしたいんだって、伝えるんだ。
 だって、言葉で言わないと伝わらないから。
 七緒は窓の外を見た。鹿児島から東京までは遠い。少しでも休んだ方が良いとは思うのだが、どうしても目が冴えてしまう。
 帰ったら桐子に何から話そうか。それを考えると、とても眠れそうになかった。




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