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幸福の条件



 繋がった場所から、溶け合ってしまうようだった。
 私は唇を噛み締める。堪え切れなくて、切ないため息が漏れた。
 身体の奥の、いちばん深いところを熱い肉杭が貫く。ずしんとした衝撃と、甘美な快感。
 私の欠けた部分へぴたりとはまり込んで少し大きい。それが恭次の性器だった。ほんの僅か、私を無理やり押し開くその熱がいとおしい。身体の奥深くから熱いものが湧き溢れてきて、繋がった部分を溶かしてしまう。
 幾度も突き上げられて私はけだものみたいに泣き叫んだ。暴れる私の体を押さえ込むようにして体重が圧し掛かってくる。汗に濡れた肌と肌が密着して、お互いを隔てている皮膚の存在を忘れてしまう。
 絶頂の波。このまま死んでしまうのではないかと思うほどの快感に押し流されて、私は意識を手放した。

気が付くと、優しい手のひらで頭を撫でられていた。
「大丈夫?」
 慈しみに溢れた瞳で私を見下ろしながら、恭次が囁く。だいじょうぶと応えて甘えるように彼の手のひらへ頭を擦りつけた。
 まるで吸い付くような手だ。ただ触れられているだけなのに、自分はこの人に心から受け入れられていると分かるのはどうしてだろう。
 手のひらだけでなく、唇も、胸も、生殖器も。私たちはおそろしいほど肌が合う。
「ひーちゃん、ひーちゃんの髪の毛ってほんとにきもちいいねえ。頬も背中も、いつまでも触っていたいよ」
 恭次が指先を私の髪に絡ませながらため息をついた。
 ただ触れ合うだけでこんなに気持ちいいなんて。こんなに穏やかで、優しくて、かつ乱れることのできるセックスを私は他に知らなかった。
 あまりに身体の相性が良いので、初めて身体を重ねたときには彼が何か特別なテクニックを用いているのかと思ったほどだ。
 ごくふつうにしてるだけだよ、ひーちゃんのほうが名器って言われない? すごく気持ちいいんだけど。と恭次は言った。どうやら私たちはお互いの指や四肢や、性器の角度、深さ長さ、全てがぴたりと嵌りあっているらしい。

「ひーちゃん、来月は久々にお泊りデートね、お誕生日のお祝いしようね」
 ホテルを出て駅までの道すがら、繋いだ手を子供みたいに振りながら恭次が言った。
 夜の空気に新芽の緑がほんのりと薫る。街路樹を照らす照明が温かい霧に僅かに滲んで、春が近いのだと感じられた。
「わー、うれしい! めいっぱいお洒落してくるね」
 そろそろ言い出してくれるかなとは思っていたが、予想通りでも嬉しいものは嬉しい。胸にふんわりと綿菓子のような甘さが広がった。
 付き合って三年、彼は私の誕生日には必ずお泊りデートを計画してくれる。雰囲気の良いレストランからカフェ、私好みのお芝居や映画、夜景の素敵なホテルまで全部をセッティングしてエスコートしてくれるのだ。最初の年に私が昔映画で見て以来ずっと憧れていたレストランで、サプライズのケーキとシャンパンを出されたときには感激して泣いてしまった。その映画の話題をいつ話したかも記憶にないくらいだったのに、彼は聞き漏らさずに覚えていてくれたのだ。
 この人と出会うことができてほんとうに良かった。私の人生は概ね幸運だが、その中でも一番のラッキーが恭次と出会ってこうして心が通じ合えたことだと思う。
 私はうっとりと彼の横顔を見上げて、ぎゅっと指先に力を入れる。
 カチリとお互いの指輪がぶつかって硬い音を立てた。
 それが自分に何の感情も呼び起こさないことを、私は改めて感謝した。

 ――だから、不倫、という言葉は使わないようにしています。婚外恋愛。結婚を目的としない恋愛があっても良いと私は思います。私たちの関係は不倫という言葉にイメージされるような暗くうしろめたいものではないのです。お互いを思いやり、心から愛し合っているカップルに「不倫」という言葉は似合いません。
 お互いの家庭のことは尊重し、相手の家族には感謝をしています。もちろん、彼の奥様を恨んだことなどありません。彼が余計なことに心煩わせることなく仕事に打ち込めるのは奥様が家庭を守ってくれているからです。私の大切な彼をきちんと支えてくださる、そのことに感謝こそすれ、恨むなんてことはありえません。
 家庭があるからこそ、今あなたの愛する彼がいるのですから。その気持ちを忘れないようにしましょう――
 よし。打ち込んだ文章を読み返して満足感に浸りつつ、私はエンターボタンを押した。
 今日の記事も我ながらなかなかうまく書けた。
 エントリーが無事にUPされたのを確認してメールボックスを開く。
 受信箱にはふたつのメッセージが届いていた。ひとつは、婚外のカレはどうしたら離婚して私との結婚を考えてくれるだろうかという三十代のシングルマザーからの悩み。
 もうひとつは、私のサイトの常連の女の子からだった。
 ――ひーちゃんさん、こんにちは。今日の記事も深く共感しながら拝読しました。
 特に、婚外恋愛をしている自分を恥じることはないんだ、という部分に今まで抱えていた辛さがすうっと楽になるような気がしました。これからも女性に勇気を与える記事を書き続けてください。
それから、ブログに載っていたご近所の煙草屋さんの猫ちゃんの写真。とっても可愛かったです。ひーちゃんさんは、何かペットを飼ってらっしゃいますか? ひーちゃんさんのこともっとたくさん知りたいです――リリィ
 彼女は一週間に一度くらいの頻度でメールをくれる、いわゆる私のファンなのだった。私の書いた記事に対する感想や、自分の婚外恋愛の経過などを丁寧に書いて送ってくれるのだ。
 見返りを求めてサイトをしているわけではないが、こうしてファンが増えていくのはやはり嬉しいものである。
「今日はこんなとこかな」
 コーヒーを一口飲んで、カシミアのショールを肩に掛けなおした。天井を見上げてふーっとひとつ息を吐く。なんとも言えない充実感が胸に満ちていた。
 私は婚外恋愛に悩むカップルのための情報を掲載したウェブサイトを運営している。
 自分の経験を生かして、ふつうとはちょっと違う恋愛を続けるためのコツを記事にしたり、読者からの相談に答えたり。これがなかなか好評で、毎日結構な数のアクセスをはじき出しているのだった。
 私のように自らも結婚している主婦、独身の女の子、年齢や立場はさまざまだが、家庭のある男性とお付き合いしている女性は多い。
 しかし当たり前のことだが、私のように満たされた交際をしている女性は少なかった。こうして寄せられるメッセージを読んでいると彼女たちがどれだけ多くの問題を抱えているかよく分かる。もっと悪いのは、彼女たちが自分でそれを仕方のないことだと諦めてしまっていることだった。
 相手が結婚しているからといって、その恋愛が不幸だとは限らない。私はそれを恭次から教わった。
 始めは私も悩んでいた。人には言えない悩みや喜びを誰かと分かち合いたくてサイトを開いた。しかし恭次との真摯な繋がりを経て、次第に婚外恋愛についてある程度の答えを見出せるようになってきたのだ。今では自然と他の女性の悩みを聞く立場に立っている。
 もちろん、どんなに女性が思いやりを持っていても、相手の男性が同じ気持ちでなければ幸福な関係は難しい。それはふつうの恋愛でも婚外恋愛でも同じことだ。その点、恭次は本当に貴重な男性と言えた。多くの女性の悩みを聞いて改めて分かったことだが、身勝手な男というのは世の中に本当に多いのだ。夫にも、恋人にも。
 少しでも多くの女性が幸せな恋愛をできるように、私はできるだけのことがしたかった。閲覧者の中には婚外恋愛に否定的で私を罵倒するひともいるが、そういう心の貧しい人間のことは相手にしない。 結婚していても恋愛したいという欲求は自然なものだ。
 男性だけでなく、女性にだってその欲求はある。それが間違ったことではないと、幸福な結婚生活と相反するものではないと私は証明したい。婚外恋愛はただ不幸な結婚生活を紛らわす捌け口ではないはずだ。もっと高尚な、言ってみればふつうの恋愛よりも一段階上のステージにある関係なのだ。
 玄関でカチャリと鍵が開き、次いでドアが開く気配がした。私はノートパソコンを閉じて時計を見上げる。
 二十三時になるところだった。今日も残業だと夕方に連絡があった。
「お帰りなさい」
 玄関まで出迎えて、上着を受け取った。夫は少しかがみこんでチュッと私の頬に口付ける。
「比沙子、ただいま。今日も疲れた……久美子は?」
 この春中学生二年になった娘の久美子は部活のブラスバンドでしごかれているらしく、もうすっかり寝入っている。
「久美子はもう寝てるわ。遅くまでお疲れ様。お風呂沸いてるよ、すぐにご飯も温めるから」
「ありがとう。悪いね」
 疲れを滲ませながらも優しい声でそう言って、夫はバスルームへ向かった。私はその後ろ姿を見送ってからキッチンへ向かう。
 どんなに帰りが遅くとも、夫には沸かしたての風呂に入り、温かい食事をしてもらうように気をつけている。料理は全て手作りで、スーパーの惣菜など買ったことはない。もちろんお弁当もちゃんと作る。夫は毎日家族のために仕事を頑張ってくれているのだから、それぐらいのことは専業主婦として当然の心がけだ。
「昨日のシチューも美味しかったよ。京子さんたちとの女子会はどうだった」
「うん、とっても楽しかったわ。京子ったらまたワインを飲みすぎちゃって大変だった。敦子はいよいよ佐々木さんと結婚するんですって。女子会っていうか、もう主婦会よね。ふふ」
「へえ! 何かお祝い贈っておいてくれよ。それにしても、出掛けるときくらい店屋物でもいいんだけど」
「そういうわけにはいかないわ、勝手に遊びに行ってるんだもの」
 食卓へ付く夫にグラスとビールを差し出して私は微笑んだ。彼は一口ビールを呷り、新じゃがの煮物を摘んでうまいと頷く。
 夫とは大学時代に知り合った。当時から真面目な人で、大学を卒業して就職したのを期に結婚を決めた。子供を愛し、妻を愛し、お酒は嗜む程度。煙草も吸わない。週末には家族サービスを厭わない文句なしの父親だ。真面目すぎて面白みはないかもしれないが優しく、背も高いし容姿だって悪くはない。結婚十年目には一戸建てを買った。
 自慢ではないが、私は男の趣味が良いのだと思う。
 だから私は夫に不満があって浮気をしているわけではないのだ。
 夫のことは愛しているし、掛け替えのない人だと思う。今では性交渉はほとんどないが、結婚して十年以上も経った夫婦などそんなものだろう。もちろん求められたら応じるし、特にそれを嫌悪しているわけでもない。家族として夫としての彼に何の不足もあるわけがなかった。
 ただ、私は出会ってしまったのだ。
 魂の半分、運命の恋人に。

 恭次と初めて会ったときのことは今でもはっきり覚えている。
 うちから三つほど離れた駅に大きくておしゃれなショッピングモールがあって、私はそこへよく買い物に出掛けていた。
 季節は冬だった。お気に入りの北欧ブランドで食器や雑貨を買い、休憩にカフェへ入った。キャラメルモカを手に窓際に座ると、モールのエントランスに飾られた真っ白なクリスマスツリーが青くライトアップされているのがよく見える。
 ツリーの頭上にはチカチカと瞬く電飾が、天井から何本も吊るされていた。それが雨のようにツリーへ向かって光のしずくを降らせるのだ。まるで、いくつもの流れ星が降りてくるようだった。
「きれいだ」
 まさにそう呟こうとした瞬間、隣から同じ感嘆が聞こえた。
 びっくりして顔をあげると、うっとりとツリーを見詰めている背の高い男の子のすうっと鼻筋の通った横顔があった。
 私の視線に気付くと彼は照れたように慌ててそこから視線を逸らした。濃いブラウンのドレスシャツ、腰には黒いサロンを巻いている。私はその子が先ほど自分の注文を取ったギャルソンだということに気付いた。
 年齢は二十代後半というところだろうか。私よりも十近くは年下に見える。彫が深く繊細な顔つき、長めの栗色の巻き毛に真っ白の肌がまるで天使みたいだった。私はすばやく彼の手を確認する。骨ばった長い指。右手の薬指に、細いプラチナの指輪。
 それから、私はそのカフェへ行くたびに彼の姿を探した。どうやら彼のほうでも私を覚えてくれているようで、二、三度顔を合わせるうちに軽く言葉を交わすようになった。そして雑談を交わすようになってすぐに彼から食事に誘われた。
「まさか八つも年上だなんて思わなかったんだ、ひーちゃん可愛くて。一目惚れだった」
 運命というのは、あるんだと思う。
 あの日あの場所で私たちが引き寄せられるように出会ったのは、運命としか言いようがない。なんの特別な事件があったわけではなかった。おそらくあの日そこにクリスマスツリーがなくても、私たちは他のどこかで出会い恋に落ちていたのだと思う。私たちはきっと、必ず結ばれるように定められていたのだ。

  *

 ――ひーちゃんさん。お久しぶりです。しばらくメールできなくてごめんなさい。
 実はひーちゃんさんにご相談したいことがあります。
 私は婚外恋愛について、なるべく自分の考えで責任を持った行動をしようと思ってきました。けれどここにきて、どうしても一人では答えの出せない悩みにぶつかってしまったのです。
 ひーちゃんさんなら私に答えを与えてくれるのではないか……いいえ、ひーちゃんさんにしか聞くことができないことだと思い、思い切ってメールしました。
 実は先日、私は彼の子供を身籠っていることを知りました。
 もちろん計画した妊娠ではありません。いわば避妊に失敗してしまったということなのですが、私は気付いてしまいました。この子を産みたい。そう強く望んでいる自分がいることに。
 認知などしてもらわなくても良い、もちろん養育費なんかいらない、ただこの子を守りたい。けれど、それをどのように彼に伝えるべきか、そして本当に産むことが正しいのか。それが分かりません。彼は拒絶するかもしれない。それでも子供を産みたいというのは私のエゴでしょうか。
 彼は時折、「妻とは離婚して君と結婚したい」と漏らすことがあります。でもそれが本心ではないこと……いいえ、例え本心であっても実際にはその勇気がなく、もし勇気があったとしても決して実現させるべきでないことは分かっています。
 何も知らず夫を愛しているだろう奥様、そしてお子さんから彼を奪うなどという恐ろしいことができるでしょうか。彼の愛を奪い、さらに彼自身まで奪ってしまっては奥様があまりに可哀相です。自分のために誰かを不幸にするなんて、そんなことは許されないと思います。
 でも、いいえ、だからこそ私は彼の子供が欲しい。彼を自分のものにするかわりに、間違いなく私たちの愛が真実だった証を残したいのです。
 昨日病院へ行ってきました。妊娠九週目に入り、愛しいあの人の子供はすくすくと育っています。ひーちゃんさん、どう思いますか。私はこの子を産んでも良いのでしょうか。――リリィ
 思わず涙が溢れてしまった。
 なんという健気な女性なのだろうか。
 同じ女として、そして婚外恋愛をする身として彼女の心は痛いほどに分かった。
 愛する人の子供を欲しいと、きっと女なら誰でも思う。
 しかしそれを一人で育てるのにどれだけの勇気が必要だろう。並大抵の苦労ではないはずだ。彼女はそれでも敢えて茨の道を進むというのだ。
 私は酷く胸を打たれて激しい衝動に突き動かされるまま、ぜひとも子供は産むべきだ、彼もきっと分かってくれるはずだと返信を出した。
 それは正しい選択とは言えないかもしれない。けれど彼女が愛する男性ならばその決心に応えてくれるだろうと思えた。きっと産んでもいいと言ってくれるはずだ。そうであって欲しい。そして、これからも変わらずに彼女を愛し続けて欲しい。
 それにしても夫婦のかたちというのはほんとうにさまざまだと思う。夫の愛を失ったことに気付いていない、この男性の妻は憐れだ。そして、恋敵であるはずの妻を気遣うリリィさんの慎み深さには感心するばかりだった。
 そろそろ夫の帰る時間だ。私はアイラインが崩れないよう、ハンカチで目尻をそっと拭った。

「すごい、久美子も結構やるじゃない」
 小声で夫に囁くと、彼はステージを見たまま小さく頷いた。
 『ディオニソスの祭り』の演奏はクライマックスを迎えようとしている。
 娘の久美子が、ブラスバンドの学生大会に出場するというので夫婦で様子見に来たのだ。学生服姿の部員たちに混ざり、久美子はユーフォニウムを演奏していた。まだまだ先輩たちには及ばないが、素人耳にはなかなかの腕前を見せているように思える。
 演奏が終わり、会場が拍手に包まれる。私も誇らしい気持ちで娘へ拍手を送った。ついこの間までほんの小さな子供だった久美子が、いつの間にか一人で大舞台に立てるほどに成長したのだと思うと感無量だった。
 隣を見ると、夫も同じように瞳を潤ませて拍手をしている。
 ――幸せだ。
 ふと、座椅子を通じて腰に携帯電話の振動を感じた。きっと恭次からのメールだろう。幸福な気持ちが一層深まる。
 家族と、恭次。この二つがあれば私にはもう何もいらない。
 そう思いながら拍手を終え、背もたれへ置いていた鞄から携帯を取り出した。私は首を傾げる。メールも着信も受信していない。
 随分近く感じたが、隣の振動だったのだろうか。だとしたら夫の携帯だろうと思うが、彼は気にする様子もなくパンフレットに見入っている。
 もう一度、座椅子が震えた。
 こんなにはっきり振動しているのにまったく気付かないなんて、ちょっと鈍いんではないかしら。
 しかし、私はその鈍さに助かる部分も多いにあると言えるだろう。
 優しく細かいことには気づかない夫と、聡明で美しい娘。今夜は久美子の好きなものをうんと作ってあげよう、そして自らの幸福を噛み締めようと私は満足だった。

 その夜、リリィさんから再びメールが届いた。
 あれから勇気を出して打ち明けてみたが、恋人も自分に子供ができたことをとても喜んでくれた。これを機に妻とは離婚したいと繰り返し言っているが、それだけはいけないと彼に言い聞かせているという内容だった。
 私は再び、彼女の覚悟の深さに胸を打たれた。
 ふつう、恋人にそこまで言われて我慢できるだろうか。彼女は恋人の家族を本気で尊重しているのだ。なんてすてきな女性なのだろうか。
 でも、と私は思う。
 でも。彼さえそう言ってくれているなら、一緒になってもいいのではないだろうか?
 婚外恋愛においては相手の家庭を守るべきだとは思うが、彼が離婚をしたがっているのなら話は別じゃないだろうか。少なくとも私の目には、奥さまよりもリリィさんのほうが彼のパートナーとしてふさわしいように思える。
 確かに結婚というのは尊いものだが、実際、順番を間違えることだってあるのじゃないか。出会いは早い者勝ちではないだろう。
 私はすっかりリリィさんに感情移入していた。カップルの数だけ幸福のかたちがあるはずだ。彼女たちにはもっともふさわしい幸福へと歩んで欲しいと、そう思った。

  *

 ホテルのドアを開いた瞬間、私は思わず感嘆の悲鳴を上げた。
 目の前に広がる海。広いベッドルームの壁一面が窓になっていて、その向こうに横浜の海と夜景が広がっている。
 二間続きになった室内は奥行きがあって、内装や調度品はシックに纏められていた。テーブルの上にはウェルカムサービスのシャンパンが冷えていて、傍にはハッピーバースデイと書かれたメモを添えた真っ赤なバラのフラワーバスケット。
「素敵」
 私は感極まり、思わず恭次に抱きついた。
 今夜は食事も最高だった。三ツ星レストランのシェフが独立して始めたという落ち着いた雰囲気の隠れ家風レストランで、創作フレンチのお料理がとんでもなく美味しかった。
「ああ……」
 重ねた唇の隙間から甘いため息が漏れる。テーブルのシャンパンを横目で眺めて、抱き合ったままベッドルームへ向かった。
 恭次と会うときはベッドまで飲まないことに決めている。酔いは快感を鈍らせるから。
「ひーちゃん……今日も凄くキレイだ」
 私の腰を抱き寄せ、耳朶を甘噛みしながら恭次が囁く。ぞくぞくとした震えが背筋を這い上がった。
「あ……」
 熱い舌先が、耳のくぼみをなぞる。
 小さな穴へぬるりと熱い肉が入り込んできてびくんと肩が震えた。
 荒い息づかいが鼓膜を揺らす。耳は私の性感帯だ。舌や指で優しく愛撫されるととろけそうな心地になり、くすぐったいような痺れが下腹部へじわりと降りてくる。恭次は私の身体のことをなんでも知っている。
「はぁっ……」
 耳たぶをしゃぶられて、ぐにゃりと身体の力が抜けた。彼の胸へ体重を預けた私の身体を、恭次はうまく支えながらベッドへ横たえる。
「脱がせて……」
 私は恭次の首へ腕を絡ませてそう言った。
 抱き合ったまま、長い指が背中のファスナーを下ろす。青いシルクのワンピースがするりと私の肩から落ちた。気付いたときにはブラジャーも外されている。まるで魔法みたいに手際がいい。
 剥き出しの背中を、指先がなぞる。
 ゾクゾクとした快感に私は思わず顎を上げた。
 その顎先を掴まれて、強引に口付けられる。舌を強く吸われながら左の乳房を柔らかく揉みしだかれた。
 乳首が、期待にぴんと張り詰めはじめる。
「っ……ああ」
 堪えきれず甘いため息が漏れた。

 氷水に浸されたモエ・エ・シャンドンはまだ冷えていた。細長いグラスに注ぐと美しい気泡が上り立つ。炭酸が私の喉を潤して、すうーっと熱い体の中を滑り落ちていく。
「……あれ。あれ?」
 バスローブを羽織ったままの恭次が、自らのバッグをごそごそと漁って首を傾げた。
「どうしたの?」
 抱き合った後のけだるさは心地いい。
 恋人との情熱的なセックスのあとのシャンパンとまどろみ。これ以上の贅沢があるだろうか。
「いや……おかしいな」
 珍しく焦っている。私は立ち上がって、しゃがみこむ彼の後ろへ立った。
「何? お財布でも忘れた?」
 先ほどチェックインの時にはあったように思うけれど。
 恭次は振り返り、とても困ったような顔をして「ごめん」と言った。
「誕生日プレゼントを忘れてきちゃったみたいだ」
「……そうなの?」
 落胆の声が出そうになるのを堪えて、私は微笑んだ。
「なんだ、いいのよそんなの」
「おかしいな、確かに持ってきたと思ったんだけど。ほんとにごめん」
 泣き出してしまうのではないかと思うほどしょんぼりした恭次を見ていたら可愛くて、思わず抱き締めてしまった。
 彼にしては珍しい失敗だった。ほんの少しショックではあるけれど、それよりもスキを見せ合える関係になったのだとプラスに考えることにしよう。
 期待していなかったと言えば嘘になるけれどしょうがない。すぐにまた会えるのだから、次のお楽しみにとっておけばいい。
「プレゼントより大事なものがここにあるでしょ」
 囁きながらキスをした。ちゅっ、ちゅっと啄ばむように唇を吸って、私たちはくすくすと笑いあう。
「はしゃぎ過ぎて気がそぞろだったみたいだ。次は絶対忘れないからね」
「ふふ、楽しみ。何をくれるの?」
「ひみつ」
 私たちは抱き合ったまま再びベッドへなだれ込んだ。
 ――ああ、幸せだ。
 触れ合う肌のぬくもりを感じながら、多幸感に目眩がした。

 はっと目覚めた。
 テーブルに突っ伏していつの間にか眠っていたらしい。
 時計を見ると深夜二時を回ったところだった。
 最近、夫の帰りがとみに遅い。
 仕事が大変な時期だというのは分かっていた。私はノートパソコンの電源を落として、キッチンへ向かう。鍋の中でハッシュドビーフが冷えている。
 恭次と過ごした昨夜のことを思い出すと、甘い震えが全身に漲った。
 クリスマスや誕生日、恭次と過ごすイベントは当日より少しだけズラすことにしていた。お互い家庭があるのだから当然の配慮だ。
 つまり今日(もう昨日だ)が私の誕生日本番なのだが、仕方ない。家庭のために頑張っている夫の多忙を責めてはいけないだろう。久美子は学校から帰るとお小遣いで買ったカーネーションの花束と可愛いハンカチをくれた。それだけでも充分幸せだった。
 できたら夫に温かい食事を出してあげたいけれど、今日はもう寝てしまおうか。
 私はあくびを殺しながらそう思った。
 さっき読んだ、リリィさんからのメールが私を満足な気持ちにさせていた。
 彼女の恋人がとうとう離婚を決意したというのだ。
 形ばかりの妻との結婚生活より、リリィさんを幸せにすることを選んだらしい。彼女たちの道のりは困難かもしれないけれど、決して不幸なものではないはずだ。
 婚外恋愛のこんな幸福な収束もあるのだ。そう思うと嬉しかった。
 ――ひーちゃんさん、私が勇気を持てたのもひーちゃんさんのおかげです。本当にどうもありがとうございました。これからはカレと二人(お腹の子供を入れたら三人ですね)、手を取り合って生きていきます――
 彼女のメールはそう締められていた。

 翌朝になっても夫は帰らなかった。
 残業や仕事の付き合いで終電を逃し、そのまま外泊することは今までにも稀にあった。
 でもそれ、私の誕生日じゃなくてもいいのに。ほんの少し拗ねたい気持ちになったが、まあ仕方がないだろう。前日に私も外泊しているのだから人のことは言えない。
 それよりもきちんとした一日を始めるべく気持ちを切り替えなくては。主婦の朝は戦場なのだ。
 家族の誰よりも早く目覚めたら着替えと薄化粧を済ませて、家族を起こす。専業主婦とはいえ決して寝巻きに寝癖のまま一日を始めたりしないのが私のルールだ。娘がだらだらとしたくをしている間に料理をし、洗濯物を回す。
 朝一番の珈琲は必ずドリップで。家族の健康を第一に、弁当には冷凍ものは入れない。今日の朝食は目玉焼きと鮭とご飯。
 登校する久美子を見送って次は家中に掃除機を掛ける。洗濯物を干す。午前中にここまで済ませてしまえば、あとは午後のゆっくりとした時間だった。
 夕食の買い物がてらお洒落なお店でランチを食べたり、本を読んだり。恭次にメールを送るのもこの時間だ。そう言えば昨日は珍しく恭次から一度もメールがなかった。誕生日を家族と過ごしていると思って遠慮してくれたのだろう。寂しい想いをさせてしまっただろうから、今日は恭次のお店に寄ってみようか。
 携帯を手にとって、ほんの三十分前に着信があったことに気が付いた。掃除機を掛けていて気付かなかったらしい。
『これを聞いたら、電話をください』
 留守電には恭次からの伝言が残っていた。
 普段私たちが電話で連絡を取り合うことはほとんどない。その代わり毎日何本もメールを交換する。電話を掛けるのはよほど急用のときだけだ。何かあったのだろうか?
 時計を確認する。仕事中だろうとは思いつつ、私は恭次の携帯電話を鳴らした。
「もしもし」
 二度のコールで彼が出た。
「もしもし、恭次? どうしたの?」
「……うん、ちょっと待って。場所を変える」
 嫌な予感がした。
 いつもの彼の、明るい声の響きがない。
 受話器を手で押さえたようなくぐもった沈黙のあと、再び彼の声がした。店にいるのではないのだろうか。
「ひーちゃん。まずいことになった」
 次に恭次の口から聞こえてきたのはそんな言葉だった。
「……どうしたの?」
 思わず私の声のトーンも落ちる。
「……あいつが、……妻が手首を切ったんだ。今病院にいる」
 私は言葉を失った。
 低く、囁くような声で恭次は続けた。
「ひーちゃんに渡そうと思ってた誕生日プレゼント、イニシャル入りのブレスレットと手紙……あいつが、俺の鞄から抜き取ってたんだ。あのあと帰ったら、カミさんが友達と一緒に俺を待ち構えてて……責められて喧嘩になって、その勢いで……」
 どっ、どっ、どっ。
 心臓が普段の倍もの速さで鳴り始める。
「だ……大丈夫なの、奥さん」
 ぐるぐると頭の中が回り始めた。どうしよう、どうしよう……しかしなぜだか、それは焦りや恐怖というよりは期待に近い胸の高鳴りに感じられた。
 ――もしもこのまま死んでくれたら。
 恭次は私のものだ。
 はっとする。
 いや。まさかそんな恐ろしいことを望んでいるわけがない。
 突然、リリィさんからのメールが思い出された。
 婚外恋愛の幸福な収束。これからはカレと二人で手を取り合って生きてゆきます――。
 恭次と二人で。彼の子供を生むことができたら。
 私は恭次の声で我に返る。
「ありがとう、命に別状はないって。今は薬で眠ってる」
「そう……よかった」
 落胆した。
 携帯電話を握り締める手にじわりと汗が滲む。
 私は、確かに今、落胆した。
「これから、あいつが目覚めたらいろいろ話し合わなきゃいけない。しばらく連絡できないかもしれないけど、ひーちゃんには絶対に迷惑を掛けないようにするから」
「うん……わかった。気を落とさないで」
「ありがとう……いや、おかしいな。苦しんでるのはあいつで、俺たちのせいなのに」
 恭次は自嘲するように笑った。罪の意識に苛まれているのだろうか。
 私は?
 自問自答してみる。どうやら私の胸に罪悪感は、なかった。
「……あの、あのね、恭次」
「うん?」
「私、万一のときには、恭次と一緒に責任を取るわ」
「……」
「もし離婚したって――」
「また掛けるよ」
 私の言葉を遮るようにして恭次は電話を切った。
 自分が何を言おうとしたのか、私にも、分からなかった。

 眠れぬ夜を過ごした。
 もしかすると私は恭次の離婚を望んでいるのかもしれない。
 そう思うと胸がドキドキして眠れなかった。
 今までそんなことを考えたことはなかった。当たり前だ。恭次には奥さんがいるし、私にだって家庭がある。
 私たちはお互いの家族を大事にしようと約束した。自分の大切な人を守ってくれる人に感謝しようと。それはむしろ、恭次というよりは私のためだった。
 専業主婦である私に家庭を失うことは考えられない。
 娘がなによりも大切だし、夫がいなければ生活ができないのだ。
 それなのに。
 私は今、恭次の離婚を望んでいる。この事件をきっかけにして彼と奥さんとの間に修復できない溝が刻まれることを期待している。
 いや、それどころか、彼女がこのまま目覚めないことをすら望んでいるのだ。
 そう思うとゾクっと背筋が震えた。その希望は間違いなく私の中に存在している。
 もしも本当にそうなったら私はどうするのだろう。
 夫と離婚して、娘を捨てて、恭次と新しい家庭を築くのだろうか。
 ――そんなことができる?
 胸が早鐘を打つ。それは恐ろしい想像だった。そんなことが許されるわけがない。そんな、幸福なことが。
 毎日恭次のために料理を作る。彼の服を洗ってアイロンを掛ける。大きなベッドで一緒に眠る。彼と堅実な生活を営んで、そして子供を産む。年齢的にも楽ではないだろうが、不可能では、ないかもしれない。
 なにか胸に暖かな、ふわふわした甘さが広がるのがわかった。
 家族と引き換えにしても良い。
 いつの間にか私はそれほど恭次を愛していたのだ。
 恭次はどうだろうか。
 奥さんよりはきっと私のほうを愛しているはずだ。いざというときには私を選ぶに違いなかった。
 私たちは決して離れることのできない、運命の恋人なのだから。

 一週間が経った。恭次からのメールはない。
 付き合い始めてからこんなに連絡のないことは初めてだった。
 私は不安になりそうな気持ちを精一杯に奮い立たせて、気丈に毎日を過ごした。
 大丈夫、大丈夫だ。
 離れていても心がひとつでいられる。私達はそういう絆を築いているはずだった。
 こんなときにこそ彼のことを信じなくてどうする。私は今まで女性たちの相談にそうやって答えてきたではないか。
 彼に会えない隙間を埋めるように、私は眠る間も惜しんでHPを更新した。
 同じように悩む女性たちを、会えない時間こそが愛を確認する絶好のチャンスだと勇気付けた。信頼で結ばれた二人なら待つことは苦痛ではないはずだ。言葉にすると本当にそのとおり気持ちが落ちついて来るから不思議だった。
 そうだ、こんなときこそ自分を磨くのだ。今私のするべきことをするのだ。やがて迎えに来てくれた彼に、最高の私で会えるように。
 私は夫の貯蓄からほんの少しお金を拝借し、美容院やエステへ通って自らをぴかぴかに磨き上げた。家で帰らぬ夫を待つだけの、自殺未遂なんかをするような女とは格が違うということを見せ付けなければならなかった。
 ようやく恭次から連絡があったのはさらに二週間が経過した頃だった。
 私達は人目を避け、寂れたビジネスホテルの一室へ部屋を取った。
 待ち合わせ場所に現われた恭次は疲れ切った顔をしていた。私は見たこともない彼の妻に初めて怒りを覚える。ああ、この人をこんなに疲れさせるなんて。私ならそんなことは絶対にしないのに。
「……なかなか連絡できなくてごめんね。ちょっといろいろなことがありすぎて」
「分かってるわ。良いのよ、そんなこと」
 結果をすぐにでも問い質したい気持ちを抑えて、私はそう微笑んだ。
 ソファに浅く腰掛けて恭次はがっくりと肩を落としている。
「先週、妻は退院して実家へ帰ったよ」
「……そう……」
 思わず口元が弛みそうになるのを堪えた。
「離婚したいって言われてるんだ」
 今度は堪えきることができなかった。
 手のひらで口元を隠す私に、俯いた恭次は気付いていないようだ。
「ごめんなさい、私のせいで……できることがあったらなんでもするわ」
 心からの労わりが伝わるよう、注意深く、用意したセリフを口にした。
 待っている間にいろいろ調べたのだ。
 もし彼の妻に慰謝料を払えと言われても、うちの貯金でなんとかできるはずだった。お金を払って恭次が手に入るなら安いものだ。それよりも、何が何でも離婚しないと言われるほうが怖い。奥さんのほうが彼を手放したいと思っているなら好都合だった。
「慰謝料を払う準備だってあるし、もし恭次が離婚するなら、私も――」
「離婚なんかしないよ!」
 びっくりするほど大きな声で、恭次がそう叫んだ。
 私は思わず口を噤む。
「……ご、ごめん。だって離婚なんて、できるわけない……うちはあいつの稼ぎで暮らしてるようなもんなんだ。あいつがいなくなったら生活できない。今までみたいにひーちゃんとデートだってできないよ。大体あいつ、男友達なんて言ってるけど……」
「奥さん、働いているの?」
 私は驚いて聞き返した。今まで彼の家庭のことを詳しく聞いたことはなかったのだ。なぜか、恭次の妻は冴えない専業主婦だとなんとなく思い込んでいた。
 言われてみればカフェのギャルソンの給料などたかが知れている。生活費を出して、さらにデートのたびのホテル代や、高価なプレゼントや、高級レストランの支払いがまかなえるわけがない。
 自嘲するような恭次の口から出た奥さんの勤め先は私でも知っているような大企業だった。彼が今まで私にしてくれたことや、プレゼントや、全てが奥さんの稼ぎから出たものだったのだ。
 頭を殴られたようなショックだった。
 いや、ここで諦めてはいけない。愛は障害を越えるのだ。リリィさんの覚悟を思い出し、私は気を取り直して口を開く。
「で、でも、離婚したって大丈夫よ。私、私も離婚して働くし、一緒に……」
 その先は言葉にならなかった。
 恭次の瞳が、まるで他人のように冷たく私を見ていることに気付いたのだ。
 彼は口元だけに微笑を浮かべて言った。
「ごめん、今日はもう行くね。とにかく今はカミさんを連れ戻さなくちゃいけない。これから九州のあいつの実家に行こうと思ってるんだ。いつ帰れるかは分からない。しばらく会えないと思うけど、ぼくのひーちゃんへの愛は変わらないよ」
「え……」
「お互いの家庭の大切さは充分に分かってるはずだろ。こんなときこそ家族を支えなくちゃ。何があっても、ひーちゃんに迷惑だけは掛けないから」
 以前電話で聞いたのと同じセリフを言い残して、恭次はそそくさと部屋を出て行った。

 信じられなかった。  いざという局面では恭次は必ず私を選ぶと思っていたからだ。
 いや。もちろんまだ、私が選ばれなかったというわけではない。取り合えず奥さんへのケアが第一だという、それだけのことだ。
 ――それで、もしも彼が帰ってきたら今までと変わらぬ交際が続くのか?
 分からない。ともかくホテルの支払いを済ませて家へ戻った。遅くなるつもりだったので食事を作って出たのだが、久美子は夕飯を済ませてさっさと寝てしまっていた。珍しく早く帰宅した夫がリビングで私を出迎える。
「ただいま。ごめんね、遅くなって。ご飯食べた?」
 私はショックを押し殺してそう微笑み、エプロンを手にとってキッチンへ向かった。
「まだならすぐ暖めるから」
「いや、いいよ。話があるんだ」
 ドキリとした。
 まさか恭次とのことがバレたのだろうか。
 恭次は私に迷惑を掛けないと言ってはいたが、奥さんがどうにかして私を調べ上げる事だって可能だろう。
 今までそんな心配はしなかった。お互いの家族にはきちんと義理を通しているのだから、何も後ろ暗いことなどないのだと思ってきた。
 しかし義理を通していたなんて自分勝手な妄想だったのかもしれない。急に怖くなる。
「な……何? 話って。深刻な顔しちゃって」
 いや、そんなことがあるわけがない。大丈夫、大丈夫だ。
 万が一バレていたとしたってしらを切り通せばいい。
 私はおどけて無理に笑顔を作った。
 夫はしばらく苦々しい表情で唇を噛み、やがて真っ直ぐに私を見据えるとはっきりした口調で言った。
「離婚してほしい」
 ぐらり、と目眩がした。
 目の前が真っ暗になるというのはこういうことだろうか。
 言葉を失った私に、夫はがばっと土下座をした。
「本当にすまない。愛人……恋人に、子供ができたんだ」
「え……?」
 思いがけない言葉だった。私は混乱する。
 恭次とのことがバレたのではないのか。
「できれば久美子も引き取りたいが、本人が嫌だと言うなら養育費は払う」
「何を言ってるの……」
 子供。恋人。
 夫が不倫をしていて、相手の女が妊娠したということか。
 ようやく事情が飲み込めてきた頃には、激しい怒りで目の前が赤く染まった。
「……うそでしょう」
「すまない」
 頭こそ下げてはいるが、迷いのない凛とした態度。
 静かな声色に夫の決意の固さを感じた。私はぎゅっと拳を握り締める。
「ふ、ふざけないで! 離婚なんかしないわ!」
「子供が居るんだ」
「堕ろさせなさいよそんなの!」
 思わず叫んでいた。
 口に出してしまってから自分が何を言ったかに気付いたが、止められなかった。目の前にあったコーヒーカップを夫へ向かって投げつける。
「信じられない。酷い裏切りだわ! 私は、私は絶対認めないから」
 飛び散ったコーヒーが夫の背広に黒い染みをつくった。
 まるで血痕のようだ。このまま殺してやりたい。
 泣きたいと思ったわけでもないのにぼろぼろと涙が溢れてきた。
「ひどい。ひどいわ、私はあなたにこんなに尽くしてきたのに……」
「……言っていることが、随分違うじゃないか」
「え?」
「見たよ。お前のホームページ。利恵に見せてもらった」
「なにを……」
「子供を産むべきだと言ったのはお前じゃないか」
 何を言っているのか分からなかった。
 一瞬のちに、冷水を浴びせられたようにざあっと血の気が引く。
 リリィ。妊娠した女。それを喜んだ恋人。
 私の中で、点と点が一本の線になってゆく。
「お前が浮気しているとか、そういうことを責めるつもりはない。慰謝料もそれなりには払う。だが、もし、拒否をするならこちらにも考えがあるよ」
 あの女が夫の愛人だったというのか。
 急激に視界が開けるようだった。私のことをやたらと知りたがった女。夫を奪うつもりはないと、余裕の言葉を投げつけてきた女。
 ――彼の愛を奪い、さらに彼自身まで奪ってしまっては奥様があまりに可哀相です。
 あの哀れみは私に向けられたものだったのだ。
 唇がわなわなと震える。今まで味わったこともないほど強い憎悪が私の全身を満たしていた。
 しかし握り締めた拳を、どこに振り上げてどこへ下ろせばいいのか。
 私には、分からなかった。




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