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足下の花



 ぬるい夢から覚めた。

 いつから目を開いていたのか、ふと気付くと私は厚い遮光カーテンの隙間から強い日差しが漏れているのを見詰めていた。
 目覚めから少し遅れて、目覚まし時計の甲高い音が鳴り響く。
 煩い。
 頭の上まで布団を被り、何度も寝返りを打ちながら私はベッドの中で身悶えした。鈍い圧力。鉛の塊りに静かに押し潰されるような痛みを下腹の奥に感じる。
 生理の朝はだるい。
 目覚まし時計を止めなくては、と思うのに体が重い。重い。重い。重い。わんわんと一斉に蝉の鳴くような時計の音。
 私は右肘を軸にしてからだを起こした。体が重い。関節が軋む。頭がぼんやりと痛くて、意識がはっきりしない。
 それでも私はぎくしゃくとした動きでベッドから床に足を付いて立ち上がった。
 目覚し時計を止め、枕元の棚から眼鏡を取って、まず初めに今まで自分が寝ていたシーツを確認する。皺だらけだけど、染みはない。それから壁に立掛けた姿見に後姿を映す。どこにも異常のないことを確認してほっとした。
 同時に、今日一日中この不安を連れて歩かなくてはいけないことを思ってがっかりする。
 毎月毎月やってくる、この憂鬱から逃げる術はないのだろうか。
 うんざりする。部屋の外へ出ようとした時、唐突に、先程まで見ていた夢の内容を思い出した。
 ―――夢。
 無数の黒い虫が飛び回る白い部屋の中で、私はナイフを持っていた。
 蛍光灯の光を受けてきらきらと光るその刃を、私は自らのからだに当てた。邪魔なものがたくさんある。要らないもの。それらを切り離すために、私はナイフを肌に当てて力を込めた。
 まるでよく捏ねた粘土にプラスチックのへらを埋めるように、ナイフは心地よい手応えで肉へ沈み込んでいく。
 私はまず、やわらかく膨らんだ両の乳房を切り落とした。平らになった私の胸、切り口は赤いが、不思議と血は出ない。それから腹や尻の脂肪を削ぎ落とした。やはり血は出ない。腹を見下ろすと赤い肉の隙間からところどころ、白く固い肋骨が見えて真珠のように淡くつややかに輝いている。剥き出しの肉となった腹に素手を突っ込んで、私は子宮を探し出した。生暖かく、なぜか心臓のように脈打つその器官を力任せに引っ張り出す(さすがにこのときばかりはずいぶん痛かった)。一緒に心臓や腸などのほかの内臓が出て来てしまわないだろうか、という心配は杞憂に終わった。
 私はびくびくと痙攣する肉魂を床に叩きつけて踏み潰した。
 まるで皮を剥がれた胎児のようにも見えるそれはしばらく緩慢に蠢いていたが、そのうちに一度大きく震えて、そのあとぴくりとも動かなくなった。私の器官の亡骸に、音もなく、何匹もの虫が貼り付く。
 私は心からほっとした。
 そして、視界を埋める虫。羽音もなく飛び回る。虫。虫。虫。
 ―――不愉快な夢。
 私は重く痛む腹を押さえた。腹にも尻にも胸にも、たっぷり脂肪がついている。現実にはしっかりとそこにある。私の体に女性らしい丸みを与え、触ると柔らかくて、気持ちが悪い。
 私は這うように階段を下り、トイレに入った。ナプキンを替えようとしたら下着の端に付いていた血の塊が人差し指に触れ、ゆびさきを赤く染めた。慌ててトイレットペーパーで乱暴に拭ったが、なかなか取れない。
 私は舌打ちしてタンクのレバーをひねり、流れる水でごしごしと手を擦った。皮膚についた血は取れたが、爪の間の染みが取れない。
 ああ、汚れた下着もあとで洗わなくてはいけない。血の染みは落ち難い。
 最悪だ。
 子供なんかいらない。一生いらない。なんだったらセックスもしなくていい。
 だから、毎月のこの儀式から私を解放してほしい。
 女であるということは、それだけで呪いだ。
 生まれた瞬間には腹に一生分の卵子を抱え込み、からだが成熟すると同時に子を孕む準備を始める。いつか精子が送り込まれて受精し、着床するまで毎月毎月腹に血を溜める。ただそれだけを繰り返す、女とは子を産むために存在するいきものだ。いくら頭で拒否しても、体の仕組みがそうなのだ。生まれる前からプログラムされている。逃れられない、繰り返す儀式。女であることは、呪いだ。
 吐きそうになるのを飲み込んで、深く深呼吸をした。

 食卓には既に食事が並べられていた。お父さんは器用に、新聞を読みながらニュースを見ながらお茶を飲んでいる。
 お兄ちゃんと目が合って、私はおはようと声を掛けながらよろよろと椅子に腰掛けた。
 平凡な朝の風景。多く窓が取られたリビングには明るい陽の光りが注ぎ、窓の外からは雀の鳴き声が聞こえる。絵に描いたような、麗かな家族の朝。
 お母さんはカウンターでお弁当を詰めている。私たちが朝食を摂る間も決して席に着かず、あれこれと忙しく立ち回っている。きちんとアイロンの掛けられた白いエプロンの後姿を私はなんとなく眺め、すぐに飽きて食卓に視線を落とした。気分が悪い。お腹が痛い。でも、朝食を抜くと一日がもっと辛い。苦しくても何かお腹に入れなくては。
 醤油を掛けた目玉焼きに箸を刺すと、半熟に焼かれた黄身がとろりと流れ出してきた。
 黄身。黄身とは言わば、育つことのない胎児。醤油と混ざり合いながら白い皿にゆっくりと広がっていく。
 垂れ流す経血を連想した。
「なつき、今日は予備校の日でしょう?」
 弁当箱を花柄のハンカチできれいに包みながらお母さんが聞く。
 私は再び襲ってきた吐き気をオレンジジュースで飲み込んだ。
「うん」
「終わったら早く帰ってくるのよ、寄り道しないで」
「うん」
 予備校のあとの私の門限は九時半だ。予備校のない日は六時。部活動は許されていない。友達と遊びにもいけない。父は、本当は私を予備校にだって行かせたくないのだ。
「一弥さんは?」
「あ、俺は今晩はちょっと遅くなるから、夕飯はいらない」
「あら、また?」
「母さん、男には付き合いがあるんだから」
 肩を落とすお母さんを、新聞から顔を上げたお父さんが嗜める。
 私は目玉焼きの白身だけを突付き、ご飯と味噌汁を流し込むように無理矢理飲み込んで席を立った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
 玄関から外に出ると、刺すような日差しに眩暈がした。



 虫の残像。
 目を開くと、視界一面の淡いクリーム色に点々と残像が残る。
 私はぼんやりとした頭で確認した。大丈夫。これは夢の残像。現実に見えているわけじゃない。もう大丈夫だから。
 ぱちぱちと数回瞬きをしているとチャイムが聞こえて、保険医がクリーム色のカーテンを開いて顔を出した。
「午後の授業終わったよ」
 また夢を見ていた。
 生理のときは虫の夢ばかり見る。
 ゆっくりと体を起こす私に、保険医が気遣うようにして聞いた。
「どうする? まだ具合悪いなら、ご家族に連絡するけど」
「いや、それは」
 冗談じゃない。
 せっかく予備校の日なのだ。家から遠ざかっていられる間は短い。
「大丈夫です。薬が効いたみたい」
 私はそう答えてベッドから降りた。眠りすぎたせいか少しだけ頭が痛いが、下腹部の痛みは大分ましになっていた。
「そう? 無理しないでね」
 保険医がそう言いながら、机に向かって保健室使用許可の書類を書く。私はその横顔をぼんやりと見つめた。
 薄化粧だが美しい顔だ。ひとつに纏め上げた長い髪から漂うシャンプーの甘い香り。ストイックな眼鏡の奥の視線には自然な媚。白衣の下はいつもパンツルックで決して派手な格好はしないけれど、なぜか彼女は大人の女の匂いに満ちている。
 私は少しだけ彼女が苦手だった。決して嫌いではないのだけれど、いや、むしろ好きなのかもしれないけれど、それを認めたくない自分がいる。彼女の何が引っ掛かるのかはよく解らない。
「はい、じゃあここに名前書いて」
 差し出された書類に署名をする。
「ありがとうございました」
「じゃあ、また来月」
 ひらひらと手を振りながら保険医が赤いくちびるで微笑んだ。毎月、生理の初日だけ私は半日を保健室で過ごす。

 予備校のロビーは人もまばらだった。散々寄り道してから来たのですでに授業が始まっている。私は教室に入る気もなく、ぼんやりと自習室で本を読んでいた。
「おー、橘」
 厭な声がして顔を上げると、背の高い男が私を見下ろしていた。飯嶋清澄、私の一番苦手とする数学講師だった。深い茶色のポールスミスのシャツなんかを着た、若いちゃらちゃらした男だ。女生徒に呆れるほど人気がある。
 微かに自分の眉間に皺が寄るのを感じて、私はすぐに視線を手元の本へ戻した。私はこの講師が嫌いだ。いつもなれなれしく話し掛けてきて気持ちが悪い。
 もともと私は男が好きではないが、自分がもてると自覚している男は特に厭だ。
「何してんの、お前」
「自習です」
「遅刻したんだろ」
「まあ」
「やる気ねえなー」
 呆れたようにそう言って、飯嶋は私の手から文庫を取り上げた。私の鼻先を彼の手首が通り過ぎて、体臭と混じるブルガリが甘く香る。
 いやらしい匂い。
「海の向こうで戦争が始まる?政治系?」
「違います」
「じゃあポルノ?」
「惜しい」
「ふーん。じゃあ俺に貸して」
 私の許可も待たず、彼は文庫を自分の鞄に仕舞いこんだ。
 私は抗議する気も失せてデスクのパソコンに向き直り、ソリティアを呼び出した。
「おい、次は俺の授業だぞ。出るんだろ」
 無視してゲームをスタートさせると蜘蛛の柄のトランプがテーブルに並ぶ。
「次の授業まで、五分な。五分で勝てよ」
 ちらりと腕時計に目を遣り、自信に満ちた言い方で彼はそう言い捨てて自習室を出て行った。
 厭な男だ。おそらく彼は、全ての女生徒が自分目当てでこの予備校に通っているとでも思っているに違いない。
 しかし悔しいことに、それはただの自信過剰とは言えなかった。実際飯嶋に想いを寄せる生徒は沢山いたし、顔がいいだけでなく講義も解り易くて面白いと評判だ。
 ―――苛々する。
 ぴたり、と私はマウスを操る手を止めた。ゲームに行き詰まってしまったのだ。
 待て、よく考えろ。いろいろとカードを動かしてみた。まだ見逃している逃げ道があるかもしれない。意味もなくカチカチとマウスをクリックした。駄目だ。
 そうこうする内に、講義の始まりを告げるベルが聞こえてきた。ディスプレイの中、私に打つ手はなくなった。
 私はソリティアを閉じて立ち上がった。空調の効いたビルから出ると、熱帯夜の空気が私を包む。
 バイトをしよう。生理だけどまあいい。あの男に会ったあとはいつも気分が悪くなる。厭な匂いと、声。苛々して乱暴な衝動がやってくる。
 ―――したい。
 門限まであと二時間。大丈夫だろう。
 私は地下鉄を乗り継いで繁華街に出た。
 夏の夜は短い。繁華街は短い夜を逃がすまいとする人たちで賑わっていた。すでに酔った大学生、それに眉を顰めるサラリーマン。どうせ彼らもすぐに酔っ払いの仲間になる。嬌声に怒声。笑い声。女の声も男の声もでたらめに混ざり合って、ざわざわと騒々しくて、落ち着く。
 さまざまな人たちに埋もれて、私は非個人になる。橘なつきではなくて、ただの女子高生、若い女という一纏めにカテゴライズされる。個人のデータなんか関係なしに。
 私の家庭も、私の性格も、感情も、すべて消える。
 眼鏡を外して、学生証の入った鞄と一緒に駅のロッカーに突っ込んだ。中学の終わりごろある事故が原因で衰えた私の視力は、裸眼だと両目で0.1に近い。薄靄のフィルターが掛かった私の視界の中で、街の色彩がまるで幻覚でも見ているようにぼんやりと美しく揺らいだ。
 揺れる視界と喧騒にうっとりと浸りながら、私は携帯でネットにアクセスして掲示板に書き込みをする。
 今日、ここで。すぐ会えて、お金をくれる人。本番はなし。
 そう待機メッセージを入れて、あとは待つだけ。もしも返事が入ったら、携帯電話にメールが来るようになっている。今の世の中、しろうとの女子高生にだって客を見つける手段はいくつもある。私の場合は古典的なテレクラか、掲示板に書き込みをするのが主な方法だ。
 案の定相手はすぐに見つかった。
 駅前で待ち合わせて、そのまま駅の公衆便所でフェラチオした。報酬は一万円。
 会ってから十分で終わった。ぼろい。
 私は男と別れて、コンビニでウーロン茶を買った。道端でがらがらとうがいをする。一缶まるまるうがいに使い果たして、私はロッカーに戻った。
 眼鏡を掛けると、急に視界がクリアーになる。「なつき」が戻ってきた。私は名残惜しく一つ深呼吸し、夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出した。

「ただいまぁ」
 玄関を開けるのと同時に、大きく声を掛けて家に入った。なるべく明るく、元気よく、無邪気な声で。
「お帰りなさい」
 台所からお母さんの声がする。二階の自室に行こうとしたら階段でお兄ちゃんとすれ違った。珍しく早い時間に家にいる。お兄ちゃんは就職してからめっきり帰りが遅い。帰るのが嫌ならば一人暮らしでもすれば良いと思うのだが、なぜか彼はずっと実家にいる。
 私がお兄ちゃんだったら、絶対に家を出るのに。きっと誰もそれを止めない。男は自立するものだからだ。
 シャワーで客の匂いを洗い流してから食卓へ向かった。私は一人でテーブルに着く。家族の夕食はとっくに済んでいるはずなのに、食卓に並べられた食事はどれも暖かかった。私の帰宅時間を見越して他の家族の分とは別に作り直しているのだろう。ご苦労様。
 少し離れたソファではお父さんとお母さんが仲良く並んでテレビを見ていて、赤いスーツを着た女のニュースキャスターが仏頂面で女子高生が巻き込まれた犯罪を伝えていた。
 それは家出をしていた女子高生が掲示板で出会った男に一週間監禁されたというニュースで、キャスターが事件の全貌を説明する前に、眉を顰めたお父さんがチャンネルを変えた。お母さんが私をちらりと盗み見る。彼らは、刺激的な情報をなるべく私から遠ざけようとしている。
 私は全てに気付かない振りをした。
「……だいじょうぶ」
 誰にも聞こえないように口の中で、小さく呟く。
 私にはお金がある。本当は一人でも暮らしていける。
 私は売春で稼いだお金をほとんど貯金している。もう随分と貯まった。すぐにでも一人で暮らせるだけの、充分な金額はある。
 だから、大丈夫。
 ゆっくり深呼吸して、私は咀嚼した何かを飲み込んだ。味は解らない。何を口に入れたのか覚えてない。
 飲み込んだ拍子にふと、目の奥がじくりと痛んだ。
 ―――あ、きた。
 家族に気付かれないように、私は目を閉じてそれに耐える。
 私の頭は時々酷く痛む。事故の後遺症。精神的なもの、お医者さんでは解明できない理由。それは他人にとってはないことと同じだから、ただの気のせいだと言われる。
 目を閉じた視界が赤く濁る。目の裏で、ちらちらと揺れる電飾のような赤と緑。目の前の食器を全て薙ぎ倒したくなるような乱暴な衝動に駆られた。
 ―――だいじょうぶ。だいじょうぶ。落ち着け。
 浅く何度も呼吸をする。気付かれないように、気付かれないように。
 大丈夫。私は大丈夫。いつでも自由になれる。だいじょうぶ。
 私だけの秘密が。私を守る。



 昔から、父は子供を叩いて躾けるひとだった。
 私が悪い子だから、叩かれる。好きで子を叩く親などいるわけがない、それはお父さんにとっても悲しいことだとよく言われたものだった。子供は良い子でいなくてはいけない、それは当たり前のことだ。
 幼い頃からそう育てられた私は何の疑いもなく父を信じていたし、なるべく父の逆鱗に触れないように生きてきた。それはさほど難しいことではなかった。
 折につけ叩かれはしたものの、注意深く生活していれば多くの場合は回避できる。私は上出来の子供だった。
 そう。あのときまで私はそれなりに上手くやっていた。

「どうしてこんなことをするのかな」
 安いラブホテルだった。いまどき珍しい鏡張りの天井の、丸くて廻るベッドの置いてある部屋だ。
「……どうしてって?」
 男の質問に、私は意味の解らないふりをした。
 珍しいことではない。ごくたまに、同じ事を聞いてくるような客はいる。私の容姿は派手でもなく、どちらかと言えば真面目に見えるし、ウリをする他の女の子たちとはちょっと違うような気がするのだろうと思う。
「いや、だから、その……何か、理由というか、困っていることとかがあるのかなあ、と思って」
 お金が欲しいからに決まっている。
 私はその男性を改めて見た。てっぺんが薄くなりかけた頭。小太りな体型に地味なスーツ。多分、お父さんと同じくらいの年齢だろうと思う。普通の女子高生が体を売るのには何か大きな、劇的な理由がなければいけないのだと思っているのかもしれない。
「……お話するより、早くしたくない?」
 私はカーディガンを脱ぎ、ブラウスのリボンをほどいた。
「あ、いや、そんなことしなくていいから……」
 驚いたことに男は慌てた様子で、ブラウスのボタンを外す私の手を制した。
「いや、ごめん。そんなことしなくていいんだ」
「……罪悪感が芽生えちゃったの? おじさん」
 私は呆れてため息をつきながら訊いた。
 冗談じゃない。私はオッサンと無駄話をするためにこんなところに来たんじゃない。
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて、最初から話が聞きたいと思ってメッセージを入れたんだ」
「はぁ? なにそれ」
「あ、お金はちゃんと払う。最初に約束した額をちゃんと払うよ。だから、少しだけ話を聞かせてくれないか」
 男は頭を下げた。
「……」
 男はなかなか頭を上げない。私は仕方なくカーディガンを着直し、男と並んでソファに腰掛けた。まあ、ちゃんとお金が貰えるのなら問題はない。面倒だけれど、少しくらいなら付き合ってやっても良いかと思う。
「じゃあ、前払いで」
 念のためにそう言うと、男は素直に財布から一万円札を三枚だして私の手に握らせた。財布を開いた拍子に、定期入れに挟んだ少女の写真が目に入る。
「あ、これ、おじさんの娘なんだ」
 聞いてもいないのにそう言って、男はなぜか照れ笑いをした。
「親馬鹿だとは思うんだが、その、可愛いだろう? 今はもう高校生なんだけどね」
 私に写真を見せて、恥ずかしげもなくそう言う。確かにその少女は可愛いかった。中学校の入学式だろうか。膝丈の制服姿の、髪すら染めてない、すっぴんの、真面目で清純そうな女の子だ。なるほど整った顔をしている。
「娘は援助交際をしているみたいなんだ」
 男は照れ笑いをしたままそう言った。
 大方そんなことだろうと思っていたので、私は驚きはしなかった。
「小遣いも増やしてないし、アルバイトもしていないのに段々と洋服や持ち物が派手になってきてね。最初は、先輩に貰ったとか友達と交換したとか言ってたんだよ。いや、妻にはそう言っていたらしい、ってことなんだけど。僕は仕事で忙しくて、娘と話す機会なんかほとんどなかったから。実際、娘の変化にもつい最近まで気付かなかったぐらいで」
 まだ、微笑んでいる。私はその横顔を奇妙な気持ちで眺めていた。
 なんでこの男は笑っているんだろうか。
 私の父なら、こんなときにこんな話をしながらなんて絶対に笑わない。いや、いつだって笑わないのだけれど。そもそもこんな話を誰かにすること自体がありえない。身内の恥を外部に漏らすだなんて彼にとっては死んだ方がましなはずだ。
「先日繁華街で補導されたんだ。年配の男とラブホテルから出てきたところだったらしい。娘の財布には何万円も金が入っていた。男は逮捕されたんだけどね。補導されたのを引き取りに行って、そのとき久しぶりに娘を見て驚いたよ。髪を染めて派手な化粧をして、すっかり大人の女みたいな態度をしていた。格好だけは制服のままで。ぼくはそれまで全然気付かなかったんだ」
「気付かなかったんじゃなくて、見たくなかっただけじゃないの?」
 私は少し意地の悪い気持ちになっていた。
 男は少しだけ悲しそうな顔をして、そうかもしれない、と言った。その素直さがまた私を苛立たせる。彼の笑顔は崩れない、ただし、照れ笑いから自嘲に変わっている。
「どうしてそんなことをしたのかな。ぼくたちが、いや、ぼくがいけなかったんだろうか? ぼくがもっと娘をきちんと見て、一緒に出掛けたり話を聞いたりすれば、あの子はこんなにならなかったんだろうか」
 そこで、男は顔を上げて私を見た。
「君は、どうして体を売るんだ?」
「……」
 私は沈黙した。
 彼が、好奇心やただの興味で理由を訊いているのではないということはよく解った。彼は責任を感じて、自分を責めている。
 お父さんも、私のしていることを知ったら少しでも自分を責めたりするだろうか。それともいつもみたいに、まるで自分に突然振って湧いた災害みたいな顔をするんだろうか。そんなことを考えて思わず自嘲が漏れた。ばかばかしい、後者に決まってる。
 ―――どうして?
 お金が欲しいからに決まっている。
 ―――どうしてお金が欲しいのか?
「……家を出るお金が欲しい」
 なんとなく、私は正直にそう答えた。彼がどんな感想を持つのか聞いてみたい気もした。
「大人になってから、ゆっくり貯めるんじゃだめなのかい?」
「今すぐ出たいの」
「……こんなことをしてまで?」
「こんなことって何? 私のできることの中でこれが一番割りの良い仕事だった。それだけだよ」
「そういうものじゃないだろう」
 男は食い下がるように私の両腕を掴んだ。
「そういうものじゃないだろう。ご両親から貰った大事な体を汚すんだよ。女の子にとって自分の体っていうのは、汚しちゃいけないものだろう? そうじゃないのか?」
 縋り付くような男の顔を見下ろしながら私は、すう、と気持ちが冷えていくのを感じた。
「……価値観の違いだね」
 私はそう言って、ゆっくり男の両腕を引き剥がした。
 男はまた悲しそうな顔をする。
「なあ。君たちは気付いてないんだよ。きっとあとで後悔する。女の子はもっと自分を大事にしなくちゃいけないんだ」
 泣きそうな声だった。
 彼が悪いわけじゃないのは解ってる。本気で娘や、私を心配しているのだろうことも解ってる。でも、どうしても慰めてあげる気にはなれない。
「ねぇおじさん。おじさんの子供が男の子だったら。男の子で、女性とホテルから出てきたところを補導されたんだったら、おじさんはそんなに悲しい気持ちになった? そんなに自分を責めた?」
 男は顔を上げて訳がわからないという表情をした。
 残念ながら、それで私の心は決まってしまった。可哀想な子羊は選択を間違えてしまったのだ。そもそもは私を選んだ時点で、一緒にここに入った時点ですっかり間違っていたのだけれど。
「……おじさん」
 私は微笑んだ。とっておきの笑顔で。
 優しく男の手を取り、私の太腿に乗せてやった。微かにスカートの中へ、太腿の一番柔らかい場所へ。
 男は驚いた顔で私を見た。恐怖に近い表情だった。私はそれに満足して、とても愉快な気持ちになる。
 彼は腕を引こうとしたが私は離さなかった。力いっぱい拒めば引き離せるはずだが、彼はそれをしない。私は彼に体を寄せ、その足の付け根に手を置く。
「君、何を」
「ねぇ? 本当は期待してたんでしょう?」
 硬直した男を押し倒すような形になって、私はその耳元で囁いた。彼が息を飲むのが解る。その腕に胸を押し付ける。スラックスの股間を何度か擦ると、すぐに硬くなってきた。
「やめなさい、」
「おじさん……すごい、大きい。ねぇ、抱いてよ……」
 期待と恐怖の入り混じったようなその顔に、私は優しくキスをした。彼のそこは既に完全に勃起している。
 キスをしながら彼のスラックスを下げ、今度はトランクスの隙間から飛び出したペニスにキスをしてやった。彼はもうなすがままだった。まるで、生贄の生娘だ。可哀想に。
 私はとても残酷な気持ちになって、フェラチオをしながら笑いがこみ上げてきた。
 事が済むと彼は酷く傷付いた顔をして帰っていった。
 目も合わせずにそそくさと部屋を出るその後姿に、ご愁傷様、と私は呟いた。

 中学に入って、三年の夏。
 夏休みに入る少し前、生まれて初めて彼氏が出来た私は有頂天だった。それまでもうちの両親は厳しいほうではあったけれど今よりはずっとましで、放課後にほんの少しのデートならすることができた。毎日にようにキスをして、抱き合って。全部が新鮮で楽しかった。よくある話だ。浮かれすぎて、ほんの少しヘマをした。妊娠したのだ。
 産もうなんて考えていたわけではなかった。けれど中絶するにもお金が掛かる。親には言えない。そうこうするうちにつわりがきてすぐ母親にバレた。愚鈍な母だと思っていたが、女の勘というのは侮れないものだ。
 その日のうちに母から話を聞かされた父は私を殴った。立て続けに二度三度と殴り、よろけて床に倒れると今度はその腹を蹴った。この恥曝し、子供のクセに、売女がなどと言いながら何度も蹴った。相手はどこの誰だ、殺してやると息巻いた。
 私はその時のことを思い出すと今でも本当に吐きそうになる。
 ―――ごめんなさい。お父さんごめんなさい。許して。ごめんなさい。
 何度も謝りながら、しかし私は頑として相手の名前を漏らさなかった。さんざん私を痛めつけて気が済んだのか、父はすぐに中絶させろと母に言いつけて自室に篭った。もちろん母はその命令を忠実に守り、恥じ入りながら明朝一番に産婦人科の予約を入れた。
 私の視界に黒い虫が現れたのは母に連れられて中絶手術に向かう朝のことだ。
 よく晴れた日だった。泣きはらした目で窓から外を見上げると、雲ひとつない青空に無数の虫がへばり付いて蠢いていた。
 私はパニックになった。
 すぐに母に異変を訴えたが、彼女は眉をしかめただけだった。私が当て付けで嘘をついていると思ったのだろう。
 気のせいでしょう、と笑われた(確かに笑った!)。私は彼女が今更ながらアテにならないことを悟り、この恐ろしい事態を自分で解決するしかないのだと知った。手術前のストレスかとも考えたが、それは手術が済んでからも消えることは無かった。
 虫は私の目の前に現れては消えた。触ることはできない、虫、雲のようなぼんやりとした煙、時には髪の毛のようなものが視界にべっとりと張り付いて。
 それからはどこに行っても虫、虫、虫。ときにはダンスをするように。渦を巻きながら。ミルクのカップの中にも。白いご飯の上にも。いつでも、どんなときでも。
 視界に常に虫や揺れる髪の毛が住み着いて、私は家から一歩も出られなくなった。頭がおかしくなってしまったのかもしれないと思った。
 学校に行けなくなっても、両親は相変わらず私が嘘をついているのだと信じて私を叱った。なぜ言うことを聞かないのかと母は泣き、父にはさらに殴られた。私の視界は虫が現れるだけでなくどんどん霞んで歪んでいき、さすがにおかしいと気付いた兄がこっそり連れ出してくれたおかげで私はようやく病院へ行くことができた。
 私の目は網膜剥離を起こしており、失明する寸前だった。虫は心の病気などではなく、網膜に傷が付いた為に起きる飛蚊症という症状だったのだ。
 両親が呼ばれ病名が告げられたあと、父が吐き捨てるように私に言った言葉は「自業自得だ」だった。母は私の怪我を悲しんだけれど、それは決して父への非難には結び付かない。私が「悪いこと」をしたのがいけなかったのだと何の疑いもなく彼女は嘆く。そんなことをするからいけないのよ、もう二度としないでちょうだいと。
 私はそうは思わない。彼らのしたことを絶対に忘れない。けれどあの人たちは、私が痛い目に会って「改心」したのだと信じている。犬でも躾けたつもりでいるのだ。
 手術をして飛蚊症は治まったし、医学的に網膜剥離は治った。けれど、私の頭はときどきひどく痛む。それは医学的には証明できないことなので、ただの「気のせい」だと言われる。
 恋人とは終わった。妊娠と中絶を知られたくもなかったし、私の門限も厳しくなりとても交際を続けられる状況ではなかった。両親は私から刺激的な情報をなるべく取り上げ、私が二度と悪い子供にならないように注意深く見張っている。ばかばかしい話だ。いずれ私も大人になるのに。きっとそのときには、夫という名の新しい「保護者」に譲り渡すつもりなのだろう。女はいつまでも庇護者なのだというわけだ。ばかばかしい、糞食らえ。
 私を守れるのは、私しかいない。

 今日も私は予備校には向かわず、まっすぐに繁華街へと出た。貯金が今月の目標額まで少し足りない。
 いつものようにテレクラと掲示板にメッセージを残して、客が引っ掛かるのを待った。レスを待つ間、駅前のタリーズでストロベリーフレーバーのコーヒーを啜る。
 斜め前のテーブルで、仕事帰りらしきOLが二人、化粧を直している。
 その隣は若いカップル。会社員。高校生、知らない制服。
 たくさんのカテゴリ。例えば私にとって、あのOLの性格や生活なんてどうでもいいことだ。向こうにとってもそれは同じことで、そこにはただ記号だけがある。家を出て知らない人にまぎれている間だけ、私は私の輪郭を確かめることができる。
 私は今はただ、女子高生と言う種類の人間。カテゴリでブランド。価値があるから高い値がつく。けれどいつまでもこのままではいられない、もうすぐ選ばなければいけない時が来る。
 両親の希望の大学は自宅から通える距離にある。進むつもりはなかった。予備校に通っているのは進学のためではなく、少しでも自由になる時間が欲しいからだ。
 高校を卒業したら。
 ―――娼婦にでもなろうか。
 冗談のつもりでそう思って、いや、悪くないな、と思い直した。
 別にセックスが好きなわけじゃない。けれど他にやりたいこともない。どうせ好きでもない仕事で稼ぐのなら、たくさんお金が貰えるほうがいい。
 それに私が娼婦でいることは、両親にとってはこの上ない屈辱に違いなかった。
 私は、私の中の女をできる限り軽い存在にしてしまいたい。両親が、周りが後生大事に守る女の価値なんてもの。たかが体ひとつ、この乳房と子宮。守ることがそれを決めるなら、思い切り安くていい。誰とでも寝る女はしかし、誰のものでもないのだから。
 そう。私は私だけのもので、誰のものでもない。
 目の奥がじくりと痛んだ。
 私は眼鏡を外してきつく眉間を揉む。
 目を閉じた視界が赤く濁る。目の裏で揺れる電飾の赤と緑。
 突然沸き起こる乱暴な衝動。怒りの。
 ―――いけない、落ち着け。
 私は知らずに詰めていた息を長く吐き出した。深呼吸を繰り返す。
 しばらくそうしているとゆっくりと波は引いていく。衝動が通り過ぎたのを確認し、私はふうと息を吐いてコーヒーを啜った。ふいに、マナーモードにしてあった携帯がテーブルの上で音を立てて振動する。
 メッセージが入った証拠だ。
 私はすぐにサイトにアクセスして、相手の携帯番号を確認した。矢部という名と十一桁の番号をメモして、こちらから非通知で電話を掛ける。
 待ち構えていたのだろう、一度のコールで慌てたように相手が電話を取った。
「も……もしもし?」
 少し強張った、若い男の声。
 焦らすように、私はしばらく沈黙。
「あ、あの、サイトの?」
 所在なさげな声が、興奮と緊張で微かに震えてる。荒い息遣い。
「はい」
「あ、あの、ぼくが矢部です。えっと、ははは」
 意味のない笑い。私も合わせて、ふふふと声を上げた。敵意はありませんよ、というエクスキューズ。少し安心したような空気が伝わってくる。
「はじめまして」
「初めまして」
 いくらかリラックスした挨拶。
「いや、なんか緊張しますね」
「そうですね、私も」
「可愛い声ですね」
「そんなこと」
 会話を交しながら相手を探る。どうやら危ないタイプではなさそうだ。
 ―――合格かな。
 扱いやすい客だろう、そう判断して、私は本題を切り出した。
「あの、お金は前金で、四万なんですけど」
「あ、はい、分かりました」
 値切られるのは承知だったが、男はあっさりと頷いた。多分初心者なのだろう。もっと吹っ掛けても良かったかな、と私は心のなかで舌打ちする。まあ、あんまり欲張っても仕方ないか。
 待ち合わせを決めてお互いの特徴を教え合い、私は電話を切った。眼鏡と荷物をロッカーへ預けよう。そう思いながら席を立ったとき。
「よう、売春か」
 背後から声が掛かった。
「!」
 ―――厭な声。
 嫌な予感。
 振り返ると、
 そこにはにっこりと微笑んだ飯嶋清澄が立っていた。
「よ」
 気安く片手をあげて。
 ―――どうしてこいつが?
 思わず息を呑んだ私を、飯嶋が高い位置から見下ろしている。瞬間、体中の毛穴が開いて閉じた。頭のてっぺんから、ざあと音を立てて血液が背中を駆け下りていく。
 ごくり、と私は唾を飲んだ。
 ―――聞かれた。
 心臓が爆発しそうな勢いで跳ね始める。私は混乱してその場に立ち尽くした。
「なんで……」
 まだ予備校で授業をしているはずの時間だ。今日は確かに飯嶋の数学が入っていた。
「俺? 今日はやんごとない用事があってお休みです」
 やんごとない用事があって休みの男がどうして繁華街をうろついているのか。
「お前と違って、サボリじゃねえぞ」
「……説教するつもり?」
 ここまで聞かれたならば言い訳しても仕方がない。やけくそになって挑むように見つめると、飯嶋の瞳が楽しそうに細められた。
「ねぇ、清澄―」
 飯嶋の後ろから甘ったるい声が掛かる。背後のテーブル席に、派手な格好の女が座っていた。
「だれぇ?」
 飯嶋の連れらしい。何を勘違いしているのか、甘い声とは裏腹にきつく私を睨んでくる。飯嶋はへらへらした顔のまま振り返って、
「おー、俺の生徒だよ。予備校の」
 と、言った。ふうん、と疑わしい瞳のまま女は黙る。飯嶋は勘違いされることすら楽しいというような顔で私に向き直った。厭な男だ、相変わらず。
「説教なんかしねぇよ、ガッコのセンセーじゃあるまいし。生徒のプライベートには関わらない主義なの。ま、妊娠と病気には気をつけてね。以上」
 言いながらぽんぽんと二回私の肩を叩いて、それだけで。彼は何事もなかったように女の待つ席へと帰っていった。
 ―――な、
 ―――それだけ?
 私は思わずその後姿を引きとめそうになり、我に返って自分を抑えた。もう私になんか興味がないとばかりに女の髪を撫でている彼から無理矢理視線を引き離す。
「……」
 私はくるりと出口へ向けて踵を返し、逃げるようにドアを開けた。その背中に。
「せいぜい稼げよ」
 からかうような声が掛かった。
 鼻の奥に、ブルガリの残り香がうざい。

「あ、あの、はじめまして」
 目の前に立つ男に私はにっこりと微笑んだ。
「はじめまして。よろしく」
 矢部と名乗ったその男は、べたつく長髪を額の真ん中で分けていた。で、サイズの半端に大きい黒いTシャツに細いジーパン。シャツはしっかりとジーパンの中にしまわれていて、折れそうに貧弱なからだを強調している。一言で言うと、
 ―――オタク。
 客に必要なのはお財布だけで容姿なんかは関係ないけど、それでも好みのタイプだと少しは嬉しい。声の若さからほんのちょっとだけ期待していた私はがっかりする自分を奮い立たせて、矢部の腕に自分の腕を絡ませた。どうせ視界はぼんやりしている。脱がしてしまえば服の趣味なんかどうだっていい。
「じゃあ、行きましょうか」
 私は彼を、歩いて行ける近くのラブホテルに案内するつもりだった。
 しかしそこで矢部はぴたりと立ち止まり、「あ、あの、ぼく車なんだけど」などと不安そうに言う。
 私はこっそり舌打ちした。
 初対面の男の車に乗ってはいけない。ウリに限らずナンパでもなんでも、信用できない男の車に乗ってはいけないと昔から決まっているではないか。
 根性がないとか勇気がないとか、そういう類の話ではない。車に乗せられて相手の家に連れて行かれたらそこに仲間が待っていた、という話だってごまんと聞く。一度車に乗ったら私達に選択の余地はなくなる。どこに連れ込まれても文句は言えない。相手を勝手に信用して痛い目を見ても誰も責任は取ってくれない。信用するほうが悪いのだ。
「すぐそこに停めてあるから」
「いえ、あの」
 私の手を引こうとする矢部の腕を引き止めた。
「私、車酔いで。すぐそこにホテルがあるから、そこにしません?」
 彼は怪訝な顔で私を見た。
「で、でも駐車場代もったいないし」
 駐車場代が惜しいなら繁華街に車で来るなよな、バカが。
「それにここらへんのホテル、駐車場あるとこ少ないから」
「じゃああるところに行こうよ」
 いらいらする。
 万が一放り出されても自力で帰れる場所でなければ困る。事が済んでからこの男が私をきちんと送り届けるという保証はどこにもない。きちんとしたシステムの店がバックアップについているならいざ知らず、一人でウリをするならなるべく危険は避けなくてはいけない。
「それじゃあ、困ります。初めて会う人の車には乗らないことにしてるんです」
 しょうがない、バカに遠まわしに言っても伝わらない。はっきり言ってみると矢部は心底心外だという顔をした。
「ええ? ぼくのこと信用できない?」
 当たり前だ。
「信用してないわけじゃないんですけど」
「だ、だったらいいだろ。大丈夫、変なこととかしないよ」
 私は奇妙な感覚を覚える。今一瞬、喋り方が少し不自然だった気がする。
 こちらから聞いてもいないのに、変なことはしない、と言った。被害妄想かもしれないけど用心に越したことはない。
「困ります」
「か、金なら払うよ」
「そういうことじゃなくて」
「売女のくせに何気取ってんだよ」
 なに?
「車には乗れないとか、清純ぶって、今更」
 彼は強く私の手を引いた。私はその腕を振り解く。
「そーゆー問題じゃないでしょう?」
 気弱そうな容貌から制しやすい相手だと判断し、睨みつけた。しかし矢部は今度は無理矢理私の手を掴もうと腕を振り上げる。
「やめてよ」
 そのとき、一瞬……ほんの一瞬、男の顔が豹変した。唇の端が捲れあがり、表情が狂暴に歪む……それはすぐに皮膚の下へ溶けるように身を潜めたけれど。
 考えるより先に、頭の中で危険信号が響いた。
「お、怒らないでよ。ごめんごめん。嘘だよ。良い子だから、車に行こう?」
 急に宥めるような声になり、矢部は媚びた目で私に縋る。その急激な変化は人を不安にさせるものだった。
 ―――こいつはいけない。
 直感。着いて行ったら駄目だ。多分ろくでもないことになる。
「さあ、ほら」
 私は差し伸べられた手から逃げて、じり、と一歩後ろへ後ずさりした。
「……行かないってば」
「いいから、ね?」
 私の手を捕まえて腰を抱こうとする。だめだ、人の話を全然聞いてない。腰は低いけれど主導権を与えた途端に物凄い支配欲を押し付けるタイプだ。加虐癖があるかもしれない。
 ヤバイ。
「やめて。私の言うとおりにできないなら、この話は取り消し」
 私ははっきりした口調でそう言った。
 矢部は一瞬、ぽかん、と口を開いたあとに、その瞳に明らかな怒りをにじませた。
 ―――ヤバイ目付き。
 どうしよう。……逃げ切れるかな。
 そう考えた私の頬に、いきなり平手打ちが飛んで来た。私は思わず尻餅をついてその場に倒れてしまう。驚いて見上げると、青白く大きな手が伸びて私の髪の毛を掴んだ。突然のことに驚いてうまく避けられなかった。
「きゃあっ」
「こ、こいつ、この」
 どもりながら矢部が片手を振り上げる。もう一度殴られた。どう考えてもまともじゃない。
 逃げろ。逃げなくちゃ。夜とは言え、まだまだ人通りのある繁華街だ。取引の場だから多少は人通りの少ない道を選んではいるが、少し走れれば充分人に会える。私は助けを求めようと周りを見渡した。
 通りの向こうに、数人の影が見える。こちらには気付いていないようすだ。
「助け―――」
 叫ぼうとした口を手でふさがれた。
「この、ば、バカにしやがって。こいつ」
 ブツブツ言いながら口をふさぎ、もう片方の腕で私の胸の辺りを抱き抱えて男は私をずるずると引き摺って行こうとする。腕が股間に触れて、彼が勃起しているのが分かった。ぞっと背筋に寒気が走る。
 ―――冗談じゃない。
 私は口を塞がれた手の、指の付け根の辺りに思い切り噛み付いた。生臭い鉄の味が口に広がって、拘束された腕が緩む。チャンスだ。私は腕を振り解いて走り出した。その、すぐ目の前の角を曲がれれば大通りだ。しかしその一歩手前で男は私に追い着いてしまった。あっと思う間も無くまた髪を捕まれる。
「嫌あっ」
 叫んだ時、大通り側から背の高い男がこちらに曲がってきたのが見えた。
 逆光で顔は見えないけれど、男のシルエット。どう見ても異常な様子の私達を見て彼は一瞬立ち止まった。矢部が慌てて私の髪を離す。
 助かった! そう思った私はすぐさま立ち上がってその人影に駆け寄った。
「助けてっ……」
 救いの神の足元に跪いて、その姿をすがるように見上げた私は愕然とした。
「おお、修羅場」
 ―――冗談じゃない。
 飯嶋清澄が、私を見下ろしてにやりと笑っていた。

「お前な、客はちゃんと選べよな。女一人じゃ、何があるか分からないんだから」
 私は唇を噛んで俯いた。飯嶋のランドクルーザーの助手席。隣の運転席で、飯嶋は煙草をふかしている。その唇の端に、小さな傷跡。微かな血の跡。
 あのあと、飯嶋が私の知り合いだと勘付いた変態男は私達が最初から美人局を仕組んだグルだと思い込んで飯嶋に殴り掛かったのだった。とは言っても飯嶋の受けた傷はその唇の端のちいさな傷だけで、反撃したら矢部はすぐに逃げた。まあ、金を払ってか弱い女に乱暴しようとするような輩が強いはずもない。
「今回は大事に至らなかったから良かったものの」
「……ごめんなさい」
 私は自分が情けなかった。
 調子に乗っていたのだろうか。客を見誤って墓穴を掘って、おまけに大嫌いな男に助けてもらった。どう考えても私のミスだ。格好悪い。
「これからは気をつけろよ」
 ピースライトの煙を吐き出しながら飯嶋は言う。おかしな男だ。普通はもうこんなことやめろとか言うんじゃないだろうか。
 俯いて、私は右足の膝を擦り剥いていることに気が付いた。引き摺られた時に擦り剥いたのだろうか。気付かないうちはなんともなかったが、気付いてしまうとひりひりと熱い。それは泥と血で汚れていて、化膿しないうちにどこかで汚れを洗い落としたかった。ふとミラーを覗けば、髪もぐしゃぐしゃに乱れている。……みじめだ。みっともない。髪を捕まれて殴られた痛みがまざまざと脳裏に蘇ってきた。さっきはそれどころじゃなくて感じなかったけれど、
 ―――怖かった。
 そう気が付いた途端に、飯嶋の手のひらが私の頭を撫でた。
 なぜだかじわりと涙が湧いて来て、私は慌ててシャツの袖で両目を拭った。しかし涙は止まらなくて、それどころかどんどん溢れて来て、私はすぐに嗚咽を堪えるので精一杯になる。飯嶋の手は柔らかく私の髪を撫でている。
 ふいに、飯嶋の胸元へ、私の頭が引き寄せられた。
「!」
 私は一瞬びくりと身体を竦めた。飯嶋はただ私の肩を抱いてじっとしている。香水の香りを立ち昇らせる体温がシャツ越しに頬に伝わってくる。
「……」
 今日のブルガリは優しいと感じる、そんな単純な自分が嫌だった。
 なのにその体温は私の中からどんどん涙を誘い出して、私は動けない。ああ、なんてありがちで安っぽい。いつだって私の現実は陳腐だ。そして滑稽だ。誰の手も借りたくない。上手くやろうと思うのに、それができない。こんなシチュエーションでこんな男に抱かれて安心する、それが紛れもなく今の私のリアルな現実なのだ、死んじまえ。

 どれぐらい経ったのか。
 泣き止んだ私に飯嶋が缶コーヒーを差し出す。
「帰るか」
 私が頷くと、飯嶋は車を走らせ始めた。
 窓から眺める街の明かりが、美しく揺らいで流れ出す。きらきらとネオン。テールランプの赤がぼんやり滲んで、
「あ」
 きれいだ、と思ってはっとした。
「眼鏡……」
 しまった。忘れてきてしまった。それだけじゃなくて、鞄も。全部駅のロッカーに突っ込んだままだ。
「どこに置いてきた?」
「……駅のロッカー」
「そっか」
 飯嶋は駅のロータリーに車を停める。私は礼を言って車を降りた。彼には私を家まで送り届ける義務なんかない。まだ電車だってバスだって走っているし、結局ホテルに行かなかったので門限にも間に合う。私は自分を自嘲した。
 ―――大丈夫。
 怖い目に合ったから、少し気弱になっているだけだ。
 そう思い直してドアを閉めようとしたら、飯嶋が私を呼び止めた。
「ここ、あんまり長く停められないから早く戻って来いよ」
「……え」
 当然のように言う顔を、思わずまじまじと見詰めてしまった。
「早く」
「あ、は、はい」
 私は慌ててドアを閉めた。ロッカーへと向かいながら、早鐘を打つ胸に混乱する。何を喜んでるんだ、ばかばかしい。
 ロッカーから鞄を出して眼鏡を掛けると「なつき」が戻ってきた。クリアになった視界を歩きながら、ふと、先ほどまでのことが嘘なのではないかと疑わしくなる。
 オタク男に襲われたところを飯嶋なんかに助けられて、今また彼の車に乗ろうとしている。信用できない車に乗ってはいけないとあれほど警戒していた私なのに。いや、あの男は講師で私は生徒なのだ、他意はない。それに彼はいつだって優しいのだ、どんな女にだって。私が特別なわけじゃない。勘違いをしたらダメだ。
ロータリーへ出ると飯嶋はランドクルーザーの外で煙草をふかしながら私を待っていて、当然のように助手席のドアを開いて私を乗せた。滑るように走り出す車内で、私たちは無言だった。長い沈黙に耐え切れなくなったのはやはり私だ。
「……先生」
「何?」
 さっきまでとは打って変わって、答えた声にはほんの少し面倒そうな響きが混ざってる。混ざっているような気がする。私は話し掛けたことをすぐに後悔した。助けられた上にすっかり甘えて家まで送らせるなんて、ちょっと優しくされて付け上ったバカな女だと思われたかもしれない。
「……どうして止めないの、私のこと」
 私はほんの少し逡巡して、そう訊いた。そしてまたすぐに後悔する。これでは止めて欲しいみたいじゃないか。さもなければ、心配して欲しいだけのただのガキだ。そんなんじゃないのに。
 私は飯嶋から目を逸らす。暗くて彼の表情はよく分からない。恥ずかしくて消えてしまいたい。
「止めて欲しいのか」
 違う。
 誰にも同情なんかされたくない。私は好きで仕事をしてる。一刻も早くお金を貯めて家を出て行くためだ。そしてあいつらに後悔させてやるのだ。復讐のために、
 ―――復讐のために自分を傷付けて?
「違う、私、ただセックスが好きなの。それだけ」
 いいや、私は傷ついてなんかいない。男と寝るなんてなんでもないことだ、ただ器官を擦り合わせて射精させるだけだ。それを不幸だと、庇護しようと思うのは他人のエゴだ。私は傷つかない。誰も私を傷付けたりできない。止めて欲しくなどない。男なんか皆一緒だ。飯嶋だって特別なわけじゃない。擦れば射精するんだ、高い金を払ってでもそれをしたいのだ、一緒だ。
「……せんせい、あの男の代わりに抱いてよ」
 頭が痛い。瞼の奥が痛む。破壊衝動。壊したいのは。
 ―――一体何なのか。

 サイドブレーキを引く音が響く。車は薄暗い公園の裏に停車した。
 ほらね。簡単だ。男なら誰でも。飯嶋だって一緒だ。若い女とやりたいのだ。
「……あ」
 隣から伸びてきた腕が私の手首を掴み、思わず体が硬直した。
 触れられた場所からぞくりと鳥肌が立ち、そして我に帰る。私は何をしてる?
「ちょっと、待った」
 顔を背けたけれど、飯嶋はかまわず力任せに私を引き寄せた。そして私の耳元近くで、嘲りと侮蔑に満ちた甘い声で、囁く。
「何緊張してんだよ、自分から誘っといて」
「……緊張なんか」
 噎せ返る、香水と混ざる体臭。絶妙なバランスで混ざり合うエロティックな香りに頭がくらくらする。飯嶋の、私の頭を包むように抱いた手のひらがやがて髪を掴んで、上向かされた唇に口付けられた。
「んっ……」
 触れ合う濡れた粘膜の柔らかさ。
 ―――やばい。
 胸の鼓動が早くて心臓が痛い。酸素が足りない。どうやって息を吸えば良いのか思い出せない。
 深く口付けたまま飯嶋の手はいきなり下半身に伸び、その指がスカートを捲り上げて下着の中に侵入し、無遠慮に私の中心に触れた。
 びくりと体が震える。ぬる、と滑る冷たいゆびさきの感触に悪寒が走った。濡れてる。
 ―――嫌だ。
 濡れてる。感じてる。どうして?
「やっぱ、やだ。やめ。やめて」
「やだ、じゃねぇだろ? なんだコレは?」
 飯嶋は激しく指を動かした。はしたないほど濡れた音を立てながら、それは私の中で蠢く。
「……あ、」
 思わず甘い声が出て、自ら口を塞いだ。
 ブルガリの香り。胸から伝わる体温。頭を抱く腕。快感があるのが怖い。
「やだ……やだってば」
「何を言ってんだよ、今更」
 暴れた。嫌じゃないことが嫌だった。飯嶋が私の両手首を掴んで、頭上で纏めて押さえ付ける。
「ここまで来てやめられるわけないだろ? なんなら金払おうか? 三万? 五万?」
「……!」
 飯嶋が残酷に嘲笑う。私は言葉を呑んだ。
 片手で私の両手を固定したまま、もう片方の手で上着を捲り上げる。いつの間にかブラジャーのホックが外されていて、飯嶋の指が素肌の胸に触れた。
 こんなに暴れたのに、飯嶋の手のひらは冷たい。
「……嫌」
 生温い舌が私の肌を舐めた。鎖骨の上。首筋。顎。蛞蝓のように跡を残して骨の上の皮膚を滑る。膣から生暖かい液体が滴り落ちるのが分かる。
 気持ち良くて泣きそうになった。今まで沢山の客としてきたのに、こんなふうに感じたことはない。
「やめてよ」
 声が震えないようにするので精一杯だった。
「好きな男とするのは初めてか?」
「……馬鹿じゃないの」
 嘲笑しようとして、できなかった。
 体が、勝手に受け入れる準備をする。濡れて、開く。自由にならない。怖い。
 怖い。こいつとしてしまったら私は客を取れなくなるんじゃないか。そんなわけはないのに、なぜか確信めいた考えが浮かぶ。
「……やめて」
 やめないで。
「やめて欲しい?」
 やめないで。
 震えた。ごく小さく、呟きが漏れた。
 やめないで。
 ぴたり、と飯嶋の愛撫が止まった。
「……ってなふうに、食われちゃうぞ。大人をからかうと」
 にやりと笑ってそう言うと彼は急に私の両手を解放し、体の上からも退いた。
 ―――なに?
「子供は真っ直ぐおウチに帰りなさい」
「……うそ」
 私は信じられない思いで飯嶋を見上げる。吐いた息が熱かった。
「どうして? なんでしないの」
 思わず問い詰めた自分をまたすぐに恥じ入る。今日は後悔ばかりだ。こいつといると嫌な自分ばかり見える。
「俺、これでも一応センセイだからね。生徒と寝るわけには。ほんとは金も持ってないし」
 欲情で体が熱い。私は涙の滲んだ目尻を手の甲で拭った。どうして? 私が拒否されるなんて。飯嶋だって興奮していたはずだ、男なんだから。皆一緒なんだから。
「それにお嬢様の門限は九時だろ。もうそろそろだ」
 私はくちびるを噛んでその頬をひっぱたいた。飯嶋は怒りもせず、薄く笑う。
「俺に金払ってるのはお前じゃなくてお前の親だからな、お客様のニーズには応えないと」
「……最低」
 欲情しないと思ったら、結局はそちら側の人間なのか。私が女だから? 子供だから? ちゃんと親の言うことを聞いておとなしくしてろって?
 興ざめだ。こいつも他の男と同じだと思いながら、本音では違っていて欲しいと願っていたことに私は気がついた。もしかしたら、もしかしたら―――こいつが私をどこか遠くへ連れて行ってくれるんじゃないかと、そんな気すらしていた。
 サイドブレーキが解かれて、何事もなかったように車が発進する。私は制服の乱れを直してフロントガラスの向こうを見据えた。この男に弱さを見せた自分を心から悔やんだ。もう二度としない、こんなこと。この男に、いや、誰にも絶対にもう本音など漏らさない。
「お前さあ、男を憎むのはお門違いだよ。八つ当たりすんなよ」
 しばらくの無言の後、飯嶋は前を見たまま、言った。
 私は息を呑む。飯嶋はちらりとも私に視線を寄越さずに続ける。
「お前んちの事情は分かんないけどさ。男に救われてめでたしめでたし、みたいな結末で良いならいくらでも止めてやるよ。このまま攫ってやってもいい、でもそうじゃないんだろ」
 私は俯いて、膝の上で両手を握り締めた。飯嶋の言う通りだ。私は結局、誰かが助けてくれるのを待っている。誰かが、可哀想だったねと連れ出してくれるのを期待している。そんなつもりでなくとも、無意識のうちにそれを求めていたのだ。
 頭を殴られたようなショックだった。自分ですら気付かなかった甘えを見破られたことも、その相手がこの男だということも。
 ああもう、死んじまいたい。糞、糞、糞―――。
 私は泣いていることを悟られないよう、頬も拭わずただひたすらに窓の外を睨んだ。次に飯嶋がこちらを向くまでに涙は乾くだろう。そしたらもう二度と泣かない、私はそう心に決める。自分を哀れんで泣く、それはとても気持ちの良いことだけど。
 別れ間際、まあ俺のこと利用したくなったらいつでも連絡しろよと言って飯嶋は私に電話番号を渡してきた。
 ブルガリが香るその紙をくしゃりと丸めて鞄に放り込む。湿った夜風に髪を弄られながら、ごめんなさいとありがとうを言い忘れたなと私は思った。



 既に季節は秋だった。風が肌寒い。私は小さくあくびをする。今朝も虫の夢を見た。金曜の朝、だるい上に生理が始まってやたらと眠い。今日は保健室で寝ようと私は思う。大勢の生徒が行き交う音を背景にぬくぬくとしたベッドの中でぼんやりと過ごすのだ、カーテンのクリーム色を眺めながら。
 出席を取るためにHRだけを済ませて保健室の扉を開けると、白衣の保険医がいらっしゃいと微笑んだ。
「そろそろ来るかと思ってた。予約席とってあるよ」
 軽口に口の中でありがとうございますと呟いて早速布団を捲る。ノリの利いたシーツが硬くて気持ちが良かった。これが段々、自分の体温で柔らかくなっていくのが好きだ。
 いつものようにカーテンを閉めるのを、保険医がなぜか制した。「橘さん、寝る前に少しだけ聞いて」
 椅子を回してこちらを向く彼女の纏め上げた髪がひとすじ、うなじにこぼれている。色っぽいなと思いながら、嫌だと言うのも面倒で私は目を閉じた。嫌になったら適当に聞きながら寝たふりをしてしまえば良いだろう。
「私、ここを辞めるのよ。子供ができたの。最後にあなたに会えてよかった」
 囁くような声で彼女が言った。私の脳裏で艶やかな唇がいやらしく蠢いている。
「……おめでとうございます」
 寝返りを打って彼女に背を向けながら私は言う。そうか、結婚するのか、ぼんやりとそう思う。なんだか裏切られたような不思議な気持ちになった。彼女はなぜわざわざそんなことを大して親しくもない私に告げるのだろう。ベッドの常連だから、別れの挨拶のつもりだろうか。
「女であることを幸せだと思うわ」
 噛み締めるような声だった。そうか、それは良かった。あなたは良い母親になるでしょう。あなたのような女性を嫁に貰う男は幸せだ。きっと家族皆に祝福されて素晴らしい家庭を築くに違いない。いくらでもそんな言葉が思い浮かんだけれど、私はそのどれも口にしたりはしない。
「私は子供なんかいらない、一生」
 自分でも驚くほど明瞭な声が出た。彼女はそう言うと思ったとでもいうように息だけでふふふと笑う。
 それきり沈黙が訪れて、私はいつの間にか深い眠りの底へと引き擦り込まれていた。そう言えば彼女とまともに話すのはこれが初めてだった。いつから妊娠していたのだろう、その腹には本当に人間が入っているのか、夢の中で私はその腹を割きたいと考えている。彼女は赤い唇を歪めて何かを囁き、笑った。

 週明けに登校すると学校はちょっとした騒ぎになっていた。保険医が失踪したというのだ。
 耳ざといクラスメイトの噂話によると彼女は確かに妊娠していて、その父親はなんと三年の男子生徒だということだった。実は先週の頭には事態が発覚し秘密裏に生徒の家族と学校との間で話し合いが行われていたらしい。男子生徒にとってはほんの恋人ごっこのつもりだったのだろう、彼は妊娠という事実に怯えすっかり逃げ腰で恋人を守ることなど考えもせず、彼女はただ一人矢面に立たされ、そして、消えてしまった。
 彼女はどのみち馘になるはずだった。その前に姿を消したのは、身内からも責められ、無理矢理中絶させられそうになったからだとまことしやかに語られている。誰もが眉を顰めて喜ぶ教室の中で、私は窓の外を眺める。女生徒たちは保険医の悲劇に同情し、男子は曖昧な顔で渦中の生徒を同情していた。私はただ一人、彼女が不幸なんかじゃなかったのだと知っている。
 周囲の全ての人間から非難されていたであろう最中、女であることを幸せだと、彼女は確かに言ったのだ。
 私はそのエゴを恐ろしく、そして少しだけ羨ましいと思った。

 もちろん、彼女がいなくなっても私の生活は何も変わりはしなかった。私は毎月虫の夢を見て、生理の初日を保健室で過ごし、月の半分ほどは予備校をさぼって体を売りその全額を貯金した。飯嶋清澄との関係もその後特に変化はない。日々は平穏に過ぎていく。
 空気がしんと冷え込んだ夕方、地平線の上で半月が赤く大きく昇ろうとしていた。
「?」
 ただいまと声を上げて玄関を開けた途端、違和感に包まれた。鍵が開いているのに物音がない。人の気配はするのに、なぜか家中が静まり返っている。
「ただいまあ」
 もう一度大きな声を出すと、リビングからお父さんの声がした。
「なつき。来なさい」
 びくり、と私の肩が震える。
 冷徹な声。いつもに増して硬質なそれは、私がもっとも恐怖する類の声だった。醜悪な記憶がフラッシュバックする―――。
 何か大変なことが起きている、と感じた。そしておそらくそれは、何か私が恐れていることだ。それが具体的に何かは解らないが、いつだってこの家で起こる出来事は最悪なのだから。
「早く」
 部屋へ荷物を置きに行きたかったが一刻の猶予も許さない響きだったので、仕方なく私はおそるおそるリビングに顔を出した。
「―――どうしたの」
 そこには険しい顔をしたお父さんと、真っ赤に目を腫らしたお母さんが座っていた。
 不吉な予感が背筋を這い上る。
「座りなさい」
「……はい」
 従うしかなかった。足が震えそうになるのを無理に奮い立たせる。大丈夫、大丈夫だ、何があったって、私は大丈夫。
 席に着くとお父さんの肩が小刻みに震えているのが解った。恐怖、のわけがない。これは怒りだ。彼は静かに激高している。その爆発の予兆を私は知っていた。今すぐ逃げ出したいと思うのに身動きできない。
「これはなんだ」
 そう言ってお父さんが差し出したものは、制服姿でおやじとラブホテルに入る私の写真だった。
 そんなことだろうと思った。ここで起こる出来事はいつだって最悪なのだ。私は絶望しながら、必死に思考を回転させて言い逃れを探す。
 お父さんは、写真と一緒に「お前の娘は売春婦だ」と書かれた紙をテーブルへ開いた。かた、と膝の上で手が震えるのをもう片方の手で押さえる。落ち着け、落ち着け。まだ大丈夫、大丈夫。逃げ道があるはずだ。
「……何、これ」
「こちらが聞きたい。何だこれは」
「……」
 それは確かに「バイト」の写真だった。悪いことに私の顔まではっきりと写っている。おやじとホテルにも見覚えがあった。確か、先週の客だ。四万で本番までして、二回目をねだってきたあの男だ。
 一瞬こいつに嵌められたのかと思ったが思い直す。それならば自分の顔を写すわけがない。じゃあ一体、誰が、こんなこと。
 ―――矢部?
 思い浮かんだのはあの変態の顔だった。しかし確信は持てない。他の客にも恨まれたことがないとは言い切れないし、そもそも誰の仕業であろうと同じことだ。秘密が明らかになってしまったことには変わりない。私は唇を噛む。
「何だこれは、と聞いているんだ!」
 もの凄い勢いでテーブルを叩いて、お父さんが怒鳴る。声よ震えるなと私は祈った。怯えていることなど知らせてたまるものか。怖くない、お前なんか怖くない。
「……知らないよ」
「知らない、じゃないだろう!」
 耳元でひゅっと風が鳴り、あっと思った時には殴られていた。
 私は椅子ごと床に倒れる。眼鏡がはじけ飛んで、床で割れる。私は無意識のうちに頭を手で押さえる。痛いというよりは、耳の後ろがじんじんと痺れている。
「この恥知らずが!」
 お父さんの怒鳴り声に、お母さんの嗚咽が被った。
 見上げると、すぐ目の前にお父さんが仁王立ちしていた。咄嗟に頭を両手で抱えると、無防備なお腹を思い切り蹴り上げられる。
「!」
 息が止まるほどの衝撃で声を上げることも出来なかった。
「親に恥をかかせて楽しいか! 世間様に顔向け出来ないようなことをして、楽しいのか!?」
 これは問い掛けではないので、返事をさせるつもりなどはもちろんない。お父さんは凄い剣幕で怒鳴りながら、何度も私を蹴った。耳鳴りする頭の遠くでお母さんの泣き声が小さく響いている。誰のために泣いているんだろう、少なくとも私のためではない。
「何とか言ってみろ!」
 きつく目を閉じたまぶたの裏で無数の黒い虫の幻覚が踊った。
 ―――やめて。
 やめて。もうやめて。
 これ以上私を傷付けないで。
 何度も蹴り上げられ、溢れそうな涙を必死で堪えた。痛みと、どうしようもない恐怖が私を包む。怖い。殺されるかも知れない。このひとたちは私を傷付けることに躊躇なんかしないのだ。
 自分の子供なのに。いや、自分の子供だからこそ。自分の一部だからこそ。親として仕方のないことだったと正当化できる。正義は悪に制裁を与えて良いのだ。どうして?
 確かに私がしたことは正しくないかもしれない。悪いことかもしれない。だから彼らは私を傷つけて良いのか、失敗作だから壊して良いのか、正しいってなんだ、例え世界中から非難されたって私は私を守りたい。遠のきそうになる意識の中ふと、それまで恐怖しかなかった私の心に怒りが生まれた。
 そうだ、正しくなくてもかまわない。私を傷付けることは私が許さない。
 私は、私にしか守れないのだ。
「……やめて」
 始めは小さな呟きだった。
「やめて。やめて。やめて!」
 それは声にするうちに叫びになった。
「いやああああああああ!」
 叫びながら蹴られ、舌を噛んだ。それでも私は声を上げた。そのうちただの奇声になってもまだ叫んだ。泣くな、怖くない、自分を保て! しっかりしろ!
「やめろよ、親父っ」
 何か大きな物音がして、突然衝撃が止んだ。
「離せ、一弥!」
「そんなことしたって何も解決しないだろうが!」
 言い争う声。やたら重い瞼を開いて見上げると、いつの間に帰って来たのかお兄ちゃんがお父さんを羽交い絞めにしていた。
「……お兄ちゃん」
 やっと出した声はもごもごとした呟きになった。私は口の中に溜まった血を吐き出す。漸く攻撃を逃れた体は、あちこちがびりびりと痺れて感覚がなかった。
「親になんて口をきくんだ、一弥!」
「親父はいつもそうだ。あんたがなつきを追い詰めていることがなんで解らないんだ!」
 人が、人を殴る音がした。
「きゃああ!」
 お母さんが悲鳴をあげる。私は驚いて目を見開いた。
 重い音を立ててお父さんが床に倒れ込む。お兄ちゃんがお父さんを殴ったのだ。
「お父さんに何をするの!」
 お母さんが金切り声を上げる。私は軋む体を引き摺るように立ち上がった。あちこち痛いが、骨は無事だと感じる。大きく深呼吸をして、唖然とした顔のお父さんとそれに縋るお母さんを見下ろした。
「……私は、お父さんとお母さんの思うとおりになんかならない」
 私の声を、外国の言葉でも聞くような顔で二人は聞いていた。お母さんがぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣き始める。ああ、傷付けた。私もこの人たちを傷付けてしまった。
「どうしてこんなこと」
 お母さんの声に胸が詰まる。私だってこんなことがしたいわけじゃない。穏やかに理解しあえることが出来たならどんなに良かったか。だけどもう遅い。随分前から私は失敗していたし、彼らは失敗作の私を壊して作り直そうとした。そんなことできるわけもないのに。
「もういい。行け、なつき」
 お兄ちゃんが搾り出すように言った。
「うちのことは俺が何とかする」
 どうして分かり合えないんだろう。傷付けたいわけじゃないのに。私は唇を噛む。やっと感覚の戻ってきた口の中は血の味がした。
 床に転がった鞄を拾い上げる。いつでも持ち歩いている通帳の中には約二百万円の貯金があった。
 このお金でいつでも一人で生きていけると思っていた。それは確かに嘘じゃないけれど。
 本当はずっと、一人になんかなりたくなかった。
「どこに行くんだこんな時間から、なつき!」
「放っておけよ!」
 玄関に向かう私の背中を怒声が追って、それをお兄ちゃんが遮る。
 お父さんがびくりと肩を竦めたのが解った。そうか、お兄ちゃんももうあの時とは違う。彼は一人の独立した大人の男で、お父さんと喧嘩をしても勝てるのだ。彼が家を出なかったのはもしかしたら私のためだったのかもしれない。私はずっとここで一人きりなのだと思っていたが、それすら甘えだったのかもしれない。
「……ありがとう」
 お兄ちゃんは顎で行けよと合図する。
「あの時こうしてやれなかったことを俺はずっと後悔してたんだ」

 駆け出すとそこは夜だった。都会の喧騒ではなく住宅街の静けさが私を迎え入れ、ざわざわと街路樹が揺れる。
 私は息が切れるまで、息が切れてもただひたすらに走りつづけた。行く当てはない。どこまで走っても結局はどこにも行けはしないのかもしれない。けれど、それでもただ遠くを目指して走った。
 夜はどこまでも私に優しい。歪んだ視界の中で、沢山の知らない家の灯かりが美しく揺らいでいた。




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