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五分間の抱擁



 ぼくの腕の中で、ナナコが眠っている。

 ように見えて安らいだ気持ちになったのはほんの一瞬だった。
 ナナコはすぐにぱっちりと目を開いて起き上がり、ぼくの腕から抜け出してしまった。
 ぼくは思わずその手を掴んで引き止めそうになって、やめる。
 いけない。ベッドから出たら彼女はぼくのものではなくなるのだ。
 それでも名残惜しく、ぼくは枕に顔を押し付けてナナコの残り香を吸い込んだ。
 セックスのあと。時計で見てきっかり五分だけ、ナナコはぼくの腕の中で眠る(ふりをする)。
 ―――後戯をしろって騒ぐのは女の専売特許だと思ってたんだけどな。
「シャワー浴びてくる」
 振り向きもせずにそう言うナナコを切ない気持ちで見送りながら、ぼくはしみじみと思った。
 このまま、彼女がぼくの腕の中で寝入ってくれたのならどんなに幸せだろう。
 彼女が眠るまで髪を撫でて、そしてぼくも眠るのだ。惰眠を貪って目が醒めて、そのとき目の前にナナコの寝顔があったらどんなにしあわせだろう。
 しかし、それは叶わないことである。

 セックスのあと、ナナコは五分だけ、ぼくの腕の中で眠るふりをする。
 そして、それでぼくが買う彼女の時間はお仕舞い。
 ナナコに聞こえないように、ぼくはこっそりため息をついた。



 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教室の空気がざわざわと波立った。
 ―――まだ終わってないつーの。
 ぼくは教壇の上でぴくりと眉を上げた。
 しかし、生徒たちはぼくの終了の言葉など待たずにせわしなく教科書やら筆箱やらを仕舞ってしまう。
「はい、じゃあ今日はここまで。最後ちゃんとノート取れよー」
 ぼくは仕方なくそう言ってぱたんと教科書を閉じた。途端に、今度は盛大にがたがたと椅子を引く音。
 まったく、高校生なんてやつは授業なんかほとんど聞いてない。
 だいたい大学に行くには予備校の授業を受けなければ意味がないそうだし、そうでないやつには成績なんかあまり関係ないし。
 若造新米教師のえーごなんて、誰もまじめに聞いちゃいないのだ。
 ―――まあ、高校ってのは勉強だけしにくるところじゃないしな。
 ぼくは、高校とは経験するところだと思っている。ままにならない人間関係や、ままごとみたいな初めての恋愛や、揉め事、そして遊び。そういったものを少しでも経験するべきなのが高校生活だ。
 まあ、だから大いに遊びなさい、とは大声で言えないのが教師のツライところなんだけど。
 教師らしくそんなことを思いながら、しかしぼくの視線は自然に教室を彷徨う。

 ぐるりと教室を見渡したぼくの視線は、佐伯ナナコの上でぴたりと止まった。
 休み時間だというのに席も立たずに、一人静かに席に着いて、目を閉じてipodを聞いている。
 その、まるで陶酔でもしているような表情を見て、ぼくはざわりと胸が嫉妬に波立つのを感じた。
 また、エスか。
 ぼくはナナコにつかつかと歩み寄り、その肩に手を置きたい衝動に駆られる。
 あの、くそ忌々しいステレオをブチ切ってやりたい。彼女はおそらく、すぐに憎しみの篭った目でぼくを睨むだろう。
 彼女はエスとの「逢瀬」を邪魔されるのを何よりも憎む。

 だからこそ、ぼくは邪魔したい。
 ステレオを切って。その視線を奪う。
 ―――バカげた考えだ。そんなこと、何も意味がない。
 ぼくは首を振って妄想を振り切って、足早に教室をあとにした。



 放課後。
 いつもの道に、一人で歩くナナコを見付けた。
 ぼくはその隣にゆっくりと車を着ける。

「よう、乗っていかないか?」
 声を掛ければナナコはちょっとだけ迷うような表情を見せ、すばやく辺りに視線を走らせた。
 人影がないのを確かめると、自然な仕草で助手席に乗り込む。
「誰かに見られたらどうするの、せんせ」
 ぼくを覗き込んで、挑発するようにナナコは笑う。
「大丈夫。誰もいないよ」
「ふぅん。…そうね、せんせは用意周到なんだもんね。つまんないの」
 さしてつまらなくもなさそうにそう言って、ナナコは勝手にカーステレオを点けた。
 つまるもつまらないもない。
 多分、ナナコはぼくに全然興味なんかないのだ。
「当たり前だろ。生徒と関係があるなんて世間に知れたら身の破滅だよ」
「だったら止めればいいじゃん、生徒と寝るのなんか」
 正論。その通りだ。一般論には意味がない。
 カーステレオ。ナナコはCDラックから一枚のCDを取り出した。
 「PESTISIDE」のニューアルバム。ナナコのために用意してあるCDだったが、彼女が迷いなくそれを手に取るのを見てぼくは少しだけ不愉快になった。
「それともみんなにバラして、教師なんか辞めようか」
 試すように言うぼくに、ナナコが素っ気無く応える。
「迷惑。責任取れないよ」
 スピーカーからエスの歌声が流れ出して、ナナコの声がぴたりと止まった。
 ぼくは溜息を吐く。見なくても解る。
 ナナコは目を閉じている。目を閉じて、エスの声に耳を澄ましている。
 エスの歌が流れ出したら、ぼくに発言権はなくなる。ナナコにとってエスの歌声を乱すものは敵だ。
 信号が赤になった。ぼくはナナコの顔をこっそりと覗き込む。
 ナナコはまるで、祈るように睫を伏せていた。息を密めて。
 神々しくて、美しかった。

 ナナコはまるでエスのしもべだ。
 エスとは最近若者を中心に人気のあるPESTISIDEというバンドのヴォーカルを務める男である。手の届かない、違う世界の住人だ。
 それは多分、思春期にありがちな憧れなのだと思う。
 十代の少女は簡単に二次元の存在に心を奪われてしまうものだ。現実の恋愛や生身の男を知らないから、偶像に恋をする。
 一方通行なその恋は、しかし叶わないからこそ一途で圧倒的な力に満ちて、時に狂おしい。
 彼女はまるで敬虔な信者が自らを滅して神に仕えるように、その全てを偶像のために捨ててしまう。
 正論も常識も、純潔もすべて。



 ナナコの白い肌がほんのりと染まっていくのを、ぼくは恍惚と見ていた。
 途切れ途切れの、ためいきのような喘ぎが、ナナコのくちびるから漏れる。
 ぼくはナナコの腰を持ち上げた。そうすると彼女の中にぼくが深く侵入する。
「ん」
 ナナコの眉根が苦し気に顰められる。
 掠れた、声。ナナコはいつも、甘くは喘がない。まるで苦しいような表情をして、泣きそうな声を出す。
 ナナコの身体は、おそらくまだ彼女に快感をもたらせたりしないだろう。発育途中の少女にとって、セックスは決して気持ち良いものではない筈だ。
 おまけに、相手は心を許した男ですらない。
 自己嫌悪に萎えそうになって、ぼくはむきになって腰を振った。
「ちょっ…と、せんせ、痛いよ…」
 きつく目を閉じていたナナコがふいにそう抗議したので、ぼくは我に帰った。
 薄く開いたナナコのひとみに、うっすらと涙が光っている。
「あ、ご、ごめん」
 ぼくは慌ててナナコから離れた。繋がっていた器官がずるりと彼女から抜け出す。
 すると、ナナコはぼくを抱きとめて言った。
「抜かなくて良いから、早くイって…」
 視界が白くぶれる。

 ぼくの腕をまくらにするナナコの髪を、ぼくはゆっくりと撫でた。
 このまま一緒に眠りたい。そして目覚めたらまた抱き合いたいと、ぼくは思う。
 しかし今日も、ナナコはきっかり五分で目を覚ました。
 ―――これで、ぼくの占有できるナナコの時間は御仕舞い。
 ぼくたちはシャワーを浴びて服を着替え、ホテルを出た。駐車場に停めた車に乗り込むときにも、さりげなく辺りを見渡す。
「じゃあ、コレ」
 車の中で、ぼくは財布から一万円札を四枚抜き取ってナナコに渡した。
「いちまい、多いよ」
 こちらを向き、ナナコは不審な顔をしてそう言う。
「ああ、いいんだ。給料日だから。それともいらない?」
「わけないっしょ。ありがたく貰っとく。来月からペスティサイドのツアーが始まるんだ」
「…またか。そのうち出席日数足りなくなるぞ」
 ぼくは溜息を吐いた。ペスティサイドのライブツアーが始まると、ナナコは学校を休んででも追っかけに行ってしまう。
 まあ、そのお金を渡しているのは、ぼくなのだが。
 ナナコには、ぼく以外にも「客」がいる。たくさんいる。
 彼女は体を売り、そして、身を削って稼いだその金を、全て「エス」に注ぎ込んでしまう。
 もちろんそれで恋が叶うわけでは、当然ない。
 彼女は、手に入らない、いとしい男をただひと時見るだけのために、たくさんの男と肌を重ねる。
 狂気の沙汰だ。
 そして、そうと知りつつ、まるで弱みにつけこむように彼女を抱くぼくもまた、正気ではないのだろう。
 解ってる。こんなことは止めさせるべきだ。教師としてだけじゃない。大人として、人間として、断固としてこんなことは止めさせるべきなのだ。
 わかっていても、ぼくには彼女を止められない。彼女が売春を止めるということは、彼女とぼくとの関係も終わるということだ。
 彼女が抱けなくなるということ。
 考えて、ぼくはぞっとした。
 なるべく、他の男に抱かせたくない。それでナナコが危険な目に会うくらいなら、ぼくが抱いたほうがよっぽどましだ。
 詭弁だ。世間には認められない理屈だろう。そんなこと解ってる。
 それでもそれは、ぼくにとっては確かに真実だった。



 終業のベルが鳴る。生徒たちはぼくの言葉を待たずに勝手に授業を終える。
 教室にナナコはいない。今頃はどこかの空の下で、エスのためにめかしこんでいることだろう。
 ぼくはふうと溜息をついた。
 ナナコのいない学校は退屈でつまらないけれど、ほっとする。
 視界にナナコがいると、ぼくは常にいろいろなものと戦わなくてはいけない。欲情と、世間体と、罪悪感と、嫉妬と。
 ナナコはいとしくて、厭わしい。
 しかし彼女の留守に平安を感じるのも僅かな間だけで、それが一週間二週間と続くとぼくは途端に不安で堪らなくなる。
 ナナコからはなんの連絡もない。

 教員室で、ぼくはテストの答案を採点しながら煙草をふかしていた。最中、何度も携帯に視線を落として、ナナコから着信がないか、メールがないかと確かめる。
「ちょっと吸い過ぎじゃありませんか、先生」
 咎めるような口調に振り返ると、国語の須藤先生が立っていた。
「…ああ」
 灰皿には、吸殻が山盛りになっている。
「職員室は禁煙じゃありませんけど、入ってくる生徒もいますから」
「ああ…すいません」
「からだにも、悪いですし」
「はあ」
 その口調から、どうやら厭味ではなくほんとうに心配してくれているらしいことが解った。
 須藤先生とぼくはほとんど同期で、年が近いこともあって何度か飲みに行ったことがある。
 特に仲の良いほうではなかったが、なんとなくぼくに気があるようだというのは前から感じていた。
 ぼくはまじまじと彼女を眺める。
 お堅いスーツに、黒のストッキング。華奢と言えば聞こえはいいが、彼女の体はスリムと言うよりはむしろ貧相だった。
 ナナコは違う。ナナコはもっと柔らかそうな肌をしている。ナナコの髪はもっと長くて艶がある。ナナコの白いゆびさきは優雅にぼくに触れる。
 ナナコの声。ナナコの匂い。ナナコの…
「!」
 ―――ヤバい。
 ナナコを思い出したら勃起してしまった。
 ―――何やってんだ、ぼくは。
 いくら欲求不満とは言え、いい大人が少女の姿を想像するだけで勃起するとはさすがに自分が情けなくなってくる。
「…先生。聞いてます?」
 須藤先生の声で、ぼくは我に帰った。
 ぼくは慌てて、書類で股間を隠すようにして振り返る。
「えっ、あ、はい?」
「だから、今夜、良かったらお食事でもと思って」
 え、と顔を上げると、須藤先生はなにやら頬を染めていた。
 室内には数人の教師がいて、その内の何人かは明らかにちらちらとこちらの様子を伺っている。
「…はあ」
 無下に断るわけにもいかず、曖昧に、ぼくは頷いた。



 溜息と共に、ぼくは紫煙を吐き出す。
 それはぼんやりと白く、安っぽい照明の灯る天井目掛けて立ち昇っていった。
 ―――あー、何やってんだかなぁ。
 もう一度深く煙草を吸い込んで吐き出す途中、煙が気管に入り込んでしまってぼくは派手に噎せた。
「ごほっ、げほ」
「大丈夫ですか?」
 激しく咳き込むぼくの背中を、須藤先生が優しく叩いてくれた。
「す、すみません。大丈夫です」
 ぼくは涙目でそう言った。まったく、まったく情けない。
 もう大丈夫、とジェスチャーして手を上げた拍子に、ぼくの手のひらが須藤先生の胸に触れた。
「あっ」
 須藤先生は改めて気付いたように慌ててシーツを引き上げて、裸の上半身を隠す。
「…すみません」
「いえ、あの…すみません」
 さっきまででかい声で喘いでたくせに胸触られたくらいで赤くなってんじゃねーよ、とぼくは思ったけれど当然言わなかった。
 ―――あーあ。ほんと、何してんだか。
 結局、ぼくは須藤先生とやってしまったのだった。
 別に、どうしてもと強引に誘われたわけではない。二人きりで酒を飲んでいたら自然とそういう流れになってしまったのだ。軽薄と罵るなかれ、男なんてそんなものだ。
「あの、何か、飲みますか」
 須藤先生はホテル備え付けのバスローブを着て冷蔵庫を覗き込んでいる。
「じゃあ、ビール」
 応えながら、ああどうしよう、明日から面倒臭いことになるぞとぼくは思った。
 タイルの床にぺたりと座る須藤先生のバスローブの胸元がはだけて、乳房ではなく肋骨が覗いている。彼女の体は服の上から見たら貧弱だったが、脱いだらもっと貧弱だった。
 なんの手も入れられていない黒髪、化粧っ気のない顔。眉毛も産毛も、ほとんど処理されていない。
 どう見ても、遊びで男と寝るような女ではない。
 ―――ああ、きっと、面倒なことになるぞ。
 ほとんど溜息でも吐きたいような気分になりながら、ぼくはおそるおそる須藤先生に話し掛けた。
「あの…こんなことになってしまってアレなんですけれども、そのぅ…」
「はい?」
 須藤先生は子犬のような瞳でぼくを見詰め返す。
 その、あまりに純朴そうな表情にぼくはうッと一瞬言葉に詰まった。しかし、なんとか勇気を振り絞って聞いてみる。
「あの…ぼくたち、お付き合いとか、そういうのは…」
「あらやだ、わたし、そんなつもりじゃあ…」
 思いがけない言葉が返ってきた。
 ぼくは意外な言葉に驚きながらも、ほっとした。じゃあ遊びということか?万万歳、と思った次の瞬間。
「でも、先生がそう言ってくださるなら、とても嬉しいですけれど」
「…」
 しまった。
 ぼくは自ら大きな墓穴を掘ってしまったのだ。
 ぼくを見る須藤先生の、子犬の目。
「あ、はは」
 いや、付き合うつもりなんかさらさらありませんとはとても言えない雰囲気になってしまった。
「嬉しいです、ぼくも…」
 ぼくは引き攣った笑いを浮かべながら、そう呟いた。
 今気が付いた。もしかして、ぼくは流され易い人間なのかもしれない。



 退屈な学校。
 相変わらず、ナナコは顔を見せない。

「あの、これ…よかったら」
 朝礼前の、職員室。うっすらと頬を染めながら須藤先生が差し出したのは、花柄のハンカチに包まれた弁当箱だった。
「ありがとうございます、有難く」
 ぼくは微笑んでそれを受け取る。
 あの翌日から、須藤先生は毎日ぼくに弁当を作ってきてくれていた。
 ぼくは机の下に弁当箱を仕舞う。噂好きの女教師たちがこっそりこちらの様子を伺っているのを感じる。
 気付いてないのか気にしてないのか、須藤先生はそ知らぬ顔で自らの席へ戻っていった。
 彼女は人目を気にしなさすぎる。もしかしたら確信犯なのだろうか。
 これでも一応、職場に数少ない若い独身男性なのである。彼女も良い歳だ、職場結婚でも狙っているのかもしれない。
 ―――ま、いっか。
 ぼくはどうでも良くなって、ううんと椅子の上で伸びなどしてみた。
 弁当攻撃は、初めこそかなり迷惑だと感じたものだがもうすっかり慣れてしまった。
 実家暮らしで少しは自由が効くとは言え、所詮は教師の安月給。実はぼくにはナナコのために作った借金が少しばかりある。
 毎昼の弁当代もバカにならないし、作ってくれるものなら有難く頂いておこうという気になったのだ。なにしろ、貰っても断っても人目に付くのである。
 どうせ噂にされているなら開き直ったほうが楽だし、生徒と噂になるよりは全然良い。
 ―――それに、考えようによってはこの状況も別に悪くはない。
 実はぼくは半ば、本気で須藤先生と付き合おうかという気になっていた。
 本当に、まじめに須藤先生と付き合って、もうナナコと関係を持つのをやめればいい。
 いくら好きとはいえ、いつまでもナナコにのめり込んでいるわけにはいかない。何がきっかけで、いつ破綻が訪れるか解らない。
 できればナナコの売春を止めさせたいが、もうぼくが何を言っても無駄だろう。だったら、もうこれ以上は知らないふりをすればいいのだ。
 金が欲しいなら渡してもいい。見知らぬ男から貰うよりはよほど安全だ。
 ただし、ナナコを抱くのだけは断じてやめる。あとは、勝手にエスでもエルでも追いかけていればいい。ぼくの知ったことではない。
 これを機に、不毛な片思いに見切りを付けよう。
 それが最善だ、とぼくは思った。



 始業のベル。

 ぼくは上機嫌で3‐Eの扉を開いた。ざわめいていた室内が、ぴたりと静まる。
 気持ち良い。
 教壇に立ち、ぼくは無意識に教室を見渡した。
「…!」
 ぼくの心臓は、どん、と一度大きく波打つ。
「―――あ」
 思わず言葉を失った。ナナコがいたのだ。
 ナナコは、特に感動もなく(ぼくを見ているわけでもなく)いつもの席に座り、ぼんやりと窓の外を見ている。
「…そ、れでは」
 ぼくの視線は、ナナコから外れない。
「授業を始めます。教科書を開いて…」
 ナナコが、こちらを向かない。

 そのあとその日の授業をどうやってこなしたのか、ぼくにはまるで記憶がない。
 その昼休み、ナナコから携帯に電話が入った。ぼくは慌てて電話を取って職員室を出る。ナナコから連絡を入れてくることはめったにない。
「…もしもし」
「もしもし、せんせ?」
「ああ…久し振り」
 ぼくの声は緊張で少しだけ上擦る。
「さっき会ったじゃん」
「いや、話すのは、久し振り」
 言い訳のようにぼくは言った。電話の向こうから、くすくすとナナコの忍び笑いが聞こえる。
「ねぇせんせ、今日は暇?」
 須藤先生と約束が入っていた。
 ―――どうする?
 一瞬迷ったあと、ぼくはすぐに思い付いた。いい機会じゃないか。
 ここできっぱり断って、これをきっかけに、ナナコとの関係に終止符を…
「…暇だよ」
 しかしぼくのくちびるは、理性を裏切ってそう応えていた。
「じゃあ、放課後、いつものとこで」
 しまった、と気が付いたときにはもう遅かった。

 約束を反故にするため須藤先生を言い包めるのは、骨が折れた。どうして女ってやつはこんな時妙にカンがいいのだろう。
 ぼくはシャワーを浴びながらため息をつく。
 ―――なにやってんだ、ぼくは。
 いや、大丈夫。まだ大丈夫。シャワーを浴びて気合を入れて、それで、きっぱり言うのだ。もうこういうことはやめよう、と。
 大丈夫。いくらぼくでも、そんなにおばかさんではない。はずだ。多分。
「…よしっ」
 パンパン、と両手で顔を叩いて、ぼくはバスルームを出た。
「長かったね、せんせ」
 ナナコが笑いながらそう言った。
 既に制服を脱ぎ、下着姿でベッドに横たわっている。
「…」
 ごくり、とぼくは唾を飲んだ。
「どしたの?早く、おいでよ」
 手を伸ばすナナコ。アダルトヴィデオを映すテレビから女優の甘い喘ぎが流れて、ナナコのそれを思い出させる。
「せんせ」
「…ナナコ」
 ぼくは目を閉じた。
 深呼吸。
「もう、やめにしようと思うんだ、こういうことは」
 ―――言った!
 途端に、どくどく、とこめかみが脈打つのを感じた。
 言った。ちゃんと言った。
 ぼくは沈黙して、ナナコの言葉を待った。
「…ふぅん」
 ナナコが、見下すようにぼくを見る。
「須藤先生とセックスするようになったから?もう間に合ってるってわけ?」
 言葉は思いの他冷たかった。
 ぼくは驚いて目を見開く。
「な、なんで…」
「噂だよ。みんな知ってる」
 ナナコはそう言うと、サイドテーブルに投げ出してあったぼくの煙草を一本抜き取って火を点けた。
 ぼくは動揺した。まさか、須藤先生のことをナナコに知られているなんて…教師のみならず、生徒にまで噂が広がっているってことか。
 迂闊だった。充分予測できたことだ。
 ナナコの赤いくちびるが、すう、と煙草を吸い込む。胸まで吸い込んで、ナナコはそれをゆっくりと吐き出した。
 ぼくは息を飲んでその様子を見守りながら、なぜだか言い訳の言葉を捜す。
 ナナコが、怒るのだと思った。
「ま、仕方ないわね。あたしはセックス以外、なんにもしてあげられないし」
 しかしぼくの予想を裏切り、ナナコはそう言って微笑んだ。
「お弁当作ったりしてあげられないしね。ま、良かったね」
 ぼくは絶句した。勝手な話だが、ナナコがあっさりとぼくの援助を切り捨てたことに…言葉に嫉妬のかけらもないことに、ぼくはショックを受けた。
 嫌がってくれるだろうと思ったのだ。怒ってくれるだろうと。
 ごめんね、とぼくは言いたかった。謝ることで優位に立ちたかった。それで自信を取り戻すつもりだったのだ。
 ―――それで?それで、どうするつもりだったんだ。ぼくは。
 自己嫌悪。身勝手な希望だ。…でも。
 自分で言い出しておきながら、ぼくは微かにナナコに怒りを覚えた。
 こんなに何度も体を重ねて、なのにどうしてそんなにあっさり別れに応じるんだ?
 結局、やっぱりナナコはぼくの金だけが目当てだったのだ。いや、そりゃあ解っていたこととは言え、それでも本来ならそこに何か感情が生まれてしかるべきじゃないか?
 このままでは、終わってしまう。本当に終わってしまう。
 ―――そんなのは。
 そんなぼくの葛藤に気付くはずもなく、ナナコはもう一度煙草をふかした。
 すうと吸い込んでくちびるから離し、くるりと吸い口をぼくのほうに向ける。
「じゃあ、これで終わりね」
 ナナコの唾液が付いた煙草に、ぼくは口を付けた。
 ナナコがにっこり笑う。
 ぼくは煙草を少しだけ吸って灰皿に押し付けた。立ち上がって制服を手に取るナナコの腕を制して掴み、ぼくのほうに引き寄せる。
「ちょっと、先生」
「それで、このあと他の男と寝るのか」
 ナナコを抱き寄せて、ぼくはそう言った。
「…何、どうしたの」
「他の男と寝るのかよ。金のために。ぼくじゃなくてもいいのか」
「何を言ってるのよ」

 ―――そんなこと、ぼくにも解らない。
 ただぼくは、今手の中にいるナナコを離したくなかった。
 このまま離したら最後になる。自分で望んだことのはずなのに、それは許しがたいことだった。
 ぼくはナナコの顔を無理矢理こちらに向けて、その唇を奪った。
 ナナコが顔を背けてぼくから逃げようとする。
 ぼくはナナコの顎を片手で掴む。ナナコの顔が歪んだ。
「ちょっと先生、やめて。そーゆうのは、あたし」
「言えよ。ぼくじゃなくてもいいのか」
「先生」
「いいのかよ」
 思いがけず、泣き声になった。
 振り切るようにぼくはナナコをベッドに押し倒して、その上に馬乗りになった。ブラジャーを乱暴に外して乳房を掴む。
 ナナコは悲鳴も上げずに、ぞっとするような目でぼくを見据えていた。
「金のためなら誰とでも寝るのか。売女!」
 汚い言葉で罵りながら、ぼくの声は震えた。
「誰でもいいのかよ。誰でも…」
「そう。エスのためなら、なんでもないわ、そんなこと」
 きっぱりとナナコが言う。迷いなく、羞じない口調で。
「エスのためなら。誰に抱かれたって平気」
「ぼくでなきゃ駄目だって、言えよ!」
 振り絞るように、ぼくは言った。
 懇願。思わせたい。ぼくでなければ駄目だと。
「…言うだけなら、いくらでも」
 金と引き換えに。
 五分だけ、ぼくの腕の中で眠るように。
 ぼくは唇を噛み締めた。
 違うんだよ。そういうことじゃないんだ。
 不覚にも涙が溢れてきた。涙が頬を伝って、ナナコの顔に落ちる。
「頼む、バカにしないでくれ…。好きなんだ」
 敗北。ぼくは敗北している。
 初めて会ったときからずっとだ。
 ナナコが、うっすらと笑った。
「好きなんだ。ナナコ」
 応えてくれ。ぼくのことが好きだと。
 金と引き換えじゃなく、ぼくが必要だと。言ってくれ。
 しかしナナコは、無情にも言い放った。
「あたしは、エスだけが好き。ごめんね先生」
 ナナコの唇が笑いのかたちに歪んで、ぼくは思わず思い切りナナコの頬を打った。
「そんなのは、ニセモノだ!」
 自分のしていることを振り返る余裕もなかった。右に左に、ぼくは何度もナナコの頬を打つ。ナナコは声も上げない。
「あんな男、一生手が届かない。ニセモノだ。偶像だよ。ナナコはまだ子供なんだ。現実じゃないもののために、一生を台無しにしようとしてる!」
 ほとんど叫ぶように、ぼくは言った。
 そう。ナナコはまだ子供だ。愛とか恋とか、どういうものか知らないのに体だけ成熟している。
 ニセモノの恋だ。手の届かない恋なんて。
「―――じゃあ、あなたはあたしの何を知っているのよ」
 ナナコの声は冷静だった。
 ぼくははっと我に返った。見下ろすと、ナナコの唇が切れて血が出ている。
 唇だけじゃない。目の上や頬骨の辺りが内出血して、ほとんど紫色をした痣を作っていた。
 ぼくは慌ててナナコの上から退いた。
 ―――なんてことをしてしまったんだ!
「ご、ごめん、ナナコ…」
 しかしぼくの謝罪の言葉も聞かず、ナナコはぼくを詰問する。
「教えてよ。先生は一体、あたしの何を知ってるんですか。本質とか考えとか、演技じゃないセックスとか。あたしのことを何か知ってるっていうの?」
 ぼくは絶句した。

 ナナコについて。ぼくが知っているのは。
 肌の色と、声と、髪と。…あとは、何か。
 手触り。全て表面的なもの。
 本質って、なんだ。

「知らないでしょう?あたしのことなんて、なにも。同じよ」
 ナナコは起き上がって、手の甲で唇の血を拭った。
「自由にはならない。知っているのは表面だけ。でも、それが本質でなくても、好きなことには変わらない。例え手に入らなくても」
 正面から、ナナコはぼくを見据えた。
「それでも好きなら、あたしがエスを好きなのと同じでしょう」
「…違う!」
 ぼくは叫んだ。どうしようもなかった。
 違う。違うと思いたい。ナナコが手の届かない場所にいるなんて思えない。ぼくのナナコへの思いが、芸能人に恋してるのと同じだって?
 そんなわけはない。ぼくの気持ちは、そんな幻想なんかとは違う。
 もっと、地に付いた、確実な気持ちだ。そのはずだ。だって、ナナコには手が届く。
 ―――例え、気持ちは通じないとしても。
「…」
 足元が、急に揺らいだ。

 本当か?本当に違うのか?
 一方通行な片思い。金でなんとでもなるのは、即物的な性欲だけ。
 ナナコはぼくの渡した金で、いとしい男の歌を聞く。

 眩暈がする。ぼくは裸のまま、財布からあるだけの一万円札を抜いた。
「殴ったりして、すまなかった。とてもお詫びには足りないと思うけど、これでタクシーでも拾って帰ってくれ」
 礼も言わずにナナコはぼくの手から札を受け取る。そのまま無言で手早く身支度を整えて部屋を後にする間、一度もぼくを見なかった。



 翌日、出勤するとぼくは校長室へ呼び出された。
 一瞬ナナコのことかと身を固くしたが、どうやら違うようだ。
 面倒臭い、と思った。頭がとてつもなく重い。昨夜はほとんど寝ていない。
 眠ろうと目を閉じると、ナナコの体のパーツがひとつひとつ思い出されてまざまざと頭に浮かんだ。囁く声、触れる指、包む性器。
 取り返しのつかないことをした。暴力をふるってしまった。挙句にあんなタイミングであんな告白するなんてバカなことだ。ぼくは自己嫌悪して酒を飲み、壁を殴り、頭を掻き毟って気付いたら朝だった。
 最悪の気分だ。

 校長室に入ると、須藤先生が先に来ていた。
「!先生…顔色が悪いわ」
「…ああ」
 ぼくの顔を覗き込んで、須藤先生が心配そうに囁く。うざい。
 ぼくは、君になんか心配して欲しくないんだよ。
 ごほん、と校長が咳払いをした。ぼくは顔を上げる。須藤先生が姿勢を正す。
 帰りたい。
「ええ、話というのは…まあ、ご本人達が一番よく解っていると思いますが」
 重々しく、校長が口を開く。
「お二人が付き合っているという噂が、生徒の間で広まっていまして…本当ですかな」
 問い掛けではあったものの、断定的な口調だった。
 ―――ああ、なんだ、そういうことか。
 そんなこと、どうでもいいじゃないか。めんどくせぇなあ。
 そう思いながら隣の須藤先生を見ると、なぜだか照れたような顔をして俯いていた。
 バカバカしい。
「どうなんですか、須藤先生」
 校長の問い掛けに、須藤先生はすっと顔を上げた。どう応えるのだろう。
「あの…迂闊でした。気を付けます」
「ではお付き合いしているというのは」
「本当です」
 やけにきっぱりと、彼女は言い切った。
 当然だよな。言わば計画的に周囲にアピールしてたようなもんだもんな。
 白々と、ぼくはそう思う。まるで他人事としか思えなかった。
 校長は大袈裟に溜息を付きながら頭を振った。芝居じみている。
「節度のある大人同士ならお付き合いは自由ですが、ここは学校です。お二人にも、それなりの責任を持ってお付き合いをして頂かないと」
 つまり、付き合うなら、真剣に。例えば結婚を踏まえて。
 ―――バカバカしい。
「お言葉ですが、校長」
 口を開いたぼくを、須藤先生が期待の篭った目で見た。
 バカバカしい。すべてがバカバカしい。
 ぼくに必要なのは。
「ぼくたちは、お付き合いなんかしていません」
 校長よりも須藤先生が、驚いた顔をしてこちらを振り返った。
 ぼくは続ける。
「事実無根、全くの誤解です。須藤先生の勘違いです」
 はっきりとした口調でそう言うと、須藤先生の顔がみるみる屈辱で歪んでゆくのがわかった。
 ぼくは思う。
 軽蔑すればいい、ぼくはこういう人間だ。
 それで何が悪い?人の気持ちなんか解らない。ぼくに解るのは、ぼくが辛いという、ただそれだけだ。
 みんな、傷付けばいい。ぼくよりも。
 校長が眉間に皺を寄せた。
「しかし…」
 遮るように言う。
「確かに、須藤先生とセックスはしました。でもぼくは彼女のことなんか好きじゃないんだ。ぼくが好きなのは…」
 全てが、どうでも良かった。彼女に触れられないのならこんなところにいても意味がない。
 ぼくは微かに微笑んだと思う。
 浮かぶのはただ。
 ナナコの姿。 
 もう触れられない。
 立場とか、仕事とか金とか、プライドとか。
 捨てることで少しでも近づけるのならば、ぼくは何でも捨てよう。

 娼婦と罵られようと毅然としていたナナコの微笑を、ぼくは思い出していた。




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